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DENTAL MAGAZINE デンタルマガジン

ドクター招待席
のびのびとイキイキと、少年たちが汗を流しながら友情を温めあう、そんな夢ある野球チームが作れたら、幸せですね!
畑野 満

2戦後復興のさなか、“巨人、大鵬、卵焼き”が国民的人気だった昭和30年代。それは、日本人が豊かさをひたすら渇望していた時代と重なる…。その頃、阿波の国・徳島では、日が暮れるまで草野球に熱中し、美麗な“見返り美人”に胸ときめかす多感な少年がいた…。あれからおよそ40年。スポーツ万能の“青年”ドクターは、家族を見つめるようなまなざしで、切手を絵画を今もこよなく愛し続けている。その瞳は少年時代の輝きのままだ。キャッチャーの目線とマインドを失うことなく、ゆとりに満ちたマイライフを謳歌されている畑野満先生。その小気味よいサイン・コントロールの冴えを拝見させていただきました。新浜歯科医院(徳島県徳島市)畑野満先生青春をスポーツ一筋に捧げた畑野先生。よく日灼けした笑顔には、少年時代の瑞々しさがいつも漲っている。吉野川沿いの古都、“うだつ”で知られる脇町にかかる沈下橋の静かな佇まい。3時間も宿題も夕飯も忘れて草野球に明け暮れた少年時代!生まれは岡山なんです。まだ幼かった頃に一家で徳島に越して来ましたから、徳島が故郷のようなものです。私が生まれ育った昭和30年代といえば、日本がちょうど戦後復興から立ち直って、経済成長に向かって急速に加速し始めた時期。国民のだれも彼もが西洋の文化やライフスタイルに憧れながら、欧米諸国に追いつけ追い越せとばかりに、国を挙げて奮闘していた頃ですね。そんな時代の空気もなんのその、私は勉強もそこそこに、泥まみれになって草野球に明け暮れる毎日でした。小学4年生の時、町内のリトルリーグに入ることになりました。体格に恵まれていたこともあったのでしょう、ポジションはいきなりキャッチャー。やんちゃ盛りの人気者でしたよ。高校総体に晴れの連続出場。ラジオから轟いた掛け声!もちろん中学時代はくる日もくる日も、さすがに野球だけ…。城東高校では上級生に勧誘されて、ソフトボール部に入部しました。サッカー部も創部して、初代ゴールキーパーとして、気を吐いていたのもこの頃でした。ソフトボール部では、汗みどろの猛練習の甲斐があったのでしょう、昭和48年は三重総体にキャッチャーで、その翌年は福岡総体にショートで、元気いっぱい出場!対戦相手は群馬の強豪・新島学園でしたが、2年連続、1回戦で敗退するという苦汁を味わいました。でも、一生忘れられない思い出もあります。今でも語り草なのは、私の大声(笑)…。当時はラジオの実況放送でした。歓声の波のうねり、応援のざわめきのまっただ中、本塁からグラウンドに向かって、がなり立てる私の超弩級ボリュームの掛け声が、スピーカーからひたすら響きわたっていたようです。そんなこんなで、野球なしでは語り尽くせない青春時代ですが、昭和56年に松本歯科大学を卒業するまでは、文字どおりスポーツ三昧…。でもよくよく考えてみると、野球ではキャッチャー、サッカーではゴールキーパー、アメフトではクォーターバックと、いつもチームの女房役や裏方が多かったということですね。アルバムを見ても、後ろ姿しか写ってないのは、残念といえば残念じゃないですか(笑)!今年こそ“徳島Pバスターズ”の快進撃が見られるか!21年前になりますが、大学を卒業後は父が診療する医院に勤め始めました。4年後の昭和60年に、この新浜町で開業することになったのです。その頃、徳島市歯科医師会にも野球部があり、私の同級生も入っていました。名前は“徳島Pバスターズ”。ファーストがエラーするとランニング・ホームランという地上最強!?のチームだったんですね。すでに私はプロテストも経験ずみで、その同級生からぜひ入部してほしいと薦城東高校時代、総体に連続出場したソフトボール部の入場行進。前から3番目が畑野先生。ご長男・諒さんが描いた“お父さんの診療室”をバックに…。ご家族を語られる時の柔和な表情は、畑野先生のお人柄そのものだ。“眉のごと雲居に見ゆる阿波の山…”と万葉集にも詠み込まれた徳島市のシンボル・眉山。市内を滔々と流れる吉野川の向こうには、淡路島の島影も浮かぶ。4められていたのですが、ずっと断り続けていました。そのワケは…。お分かりでしょ!でも、見るに見かねて(笑)、5年前にバスターズのユニフォームに袖を通し、キャッチャーミットを手にしました。それから悪戦苦闘、試行錯誤の日々!…、百戦錬磨とはなかなかいきませんでしたが、チームはTVCMにも出演しましたし、3年前の四国大会では私も優秀選手賞をいただけました。チームメイトはみんな心の温かい連中ばかりなんですよ。今年、推されて監督に就任しました。攻走守のバランスも勝運も、まだまだ未知数のチーム力ですが、昨今の野球熱の余波を追い風に、今年こそ快進撃するのではと達観しているところなんです(笑)。一枚の切手に込められた忘れ難い思い出、こだわり…。母の実家は造酒屋でした。かすかに覚えているんですが、実家の真ん前に赤いポストが立っていまして、妙に記憶の奥に残っているのです。ちょうど8歳年上の兄が熱心な切手コレクターだったこともあって、幼いときから切手の美しい図柄や色彩に魅かれたことが、切っても切れない切手との出会いになりました。“見返り美人”とか“月と雁”とか、当時は珍しく高価で美麗なコレクションがどうしても見たくなって、兄の秘蔵のストックブックをこっそりと盗み見したことも、ありましたから…。私たちの世代は、だれでも一度は草野球や切手収集に地道をあげた経験があるはず。私の場合、切手に対しては、異常なほどの惚れ込みようだったのです。小学校3年生の頃だったと思います。自分だけの切手がどうしても欲しくて欲しくて、遂に私の切手収集の“道楽”が始まることになりました。ちょうど東京オリンピックが開かれた年だったので、五輪切手はもちろん全部揃えましたし、野球や国体などスポーツに関わる切手なら、国内外、種類、価格を問わず、それこそ一心不乱に(笑)片っ端から集めにかかりましたね。一昔前、切手発売日になると、郵便局前は早朝から長蛇の列ができるのが普通でしたでしょ。でも、買いそびれや買い忘れはコレクターのコケンにかかわる!(笑)とばかりに、私は何の苦労もなく、めざす切手を手に入れる最善の方法を見つけたのです。それは、親類の伯父が勤めていた国立病院内の小さな郵便局で買い求めることだったのですが…。小遣いをためては1枚、新しいシリーズを見つけては1枚、友達と交換しては1枚と、性懲りもなく買いため集め続けた、この40年たらずの間に、コレクションはちょうど部屋を埋めつくすほどになってしまいました。コレクターならだれでもそうでしょうが、ストックブックをひもとく度に、どの切手にも忘れ難い思い出やエピソードがあります。たった1枚の切手にも、人それぞれに人知れぬ苦労やこだわりがあるものなんですね。一木一草から宇宙空間まで、花鳥風月から生活百般まで、人生の森羅万象、社会の有象無象がわずか数センチ四方の一片に集約されているワンダーランド!これこそ、切手のもつ醍醐味、究極の魅力ではないでしょうか!旅の先々や滞在地で集めたり家族でコレクションする楽しさ!とくに好きなのは、国宝や国立公園のシリーズ、野口英雄なんかの偉人シリーズ、富嶽百景や上村松園の日本画シリーズ、統治時代の韓国切手シリーズ、ふるさと切手…と数えればキリがありませんが、お年玉記念はがきや初日カバーも意欲的に集めてきました。1983年のFDI大会の記念切手も珍しい切手のひとつでしょうね。類は友を呼ぶとはよくいったもので、近くで開業している内科の先生も熱心なコレクターということが分かってからは、いつとはなく親しい友人になってしまいました。ある日のことです、年代順にお年玉切手を何げなく見ていた時ですが、なんと買い忘れている年があったことに気づいたのです。なぜかな、おかしいな?といぶかりながら記憶をたどってみると、欠けていたのは、父が亡くなった年だと分かりました。人生と切手との奇縁を思い知らされた不思議な体験でしたね。旅行先で見知らぬ切手に出会うこともよくあります。これは胸躍るほどの鮮烈な経験ですし、時には切手好きな患者さんから切手をいただいたりすることもあります。私自身はオタク的な収集マニアではありません。あくまでも、切手というブラックホールにとり憑かれた一コレクターなんですね。ですから、ひとりきりで読書するように、オンザロック片手に一晩中懐かしい切手を見ていても全然飽きが来ません。切手が語りかけてくる世界を漫遊するうち、ストックブックを開いたまま、子供みたいに眠りこけてしまう夜もありますから(笑)。数年前からは、長女の千尋(中学2年生)と長男の諒(小学5年生)たちと一“見返り美人”“月に雁”など、日本美を伝承する絢爛華麗な切手へのこだわりと愛情は緒にコレクションする楽しみもできましひとしおだ。四国と淡路島を結ぶ鳴門大橋。世界有数を誇る豪壮な渦潮が目を楽しませてくれる。5たので、切手収集は、家族をつなぐ強い絆になっているんですよ。私は切手を利殖や投機の手段にする気はさらさらありませんが、切手の資産的な付加価値には注目してもいいと思います。情緒や感動がそのまま素直に表れる絵画の素晴らしさ!切手の“道楽”ついでというと妙ですが、私は絵を描くことも好きな少年でした。それが高じて切手の魔力から抜け出せなくなったのかも知れないのです。その遺伝子を千尋と諒が受け継いだかどうかは定かではありません。でも、親の欲目でしょうが、小さい頃から二人とも絵が大好きだったし、絵の感性は、私をはるかに凌いでいると感じますね。といいますのも、二人が阿波踊りの名画などで高名な銭谷誠先生に師事したおかげで、絵心に目覚め、学展に入賞したり、賞候補にたびたびノミネートされるようになったからです。ある日、諒が吉野川でわずか数センチのカレイを釣った時のことです。そんな小さなカレイをまるで鯨のように大きく描いていたのには、驚きでした。よほど嬉しかったのでしょうね。私のような素人が云々するのも何ですが、絵には描いた人の情緒や感動が素直に出るものと思います。常日頃感じていることですが、両親が私にしてくれたように、私も子供たちにできる限りのチャンスを与えたいと願っています。オランダのダッチブレッド1頭をきゅう舎に預けて、二人に乗馬を習わせているのも、チャレンジのつもり。幸いにも、二人とも馬によく馴染み、全日本ジュニア選手権をめざせるほどにメキメキと上達しているのは嬉しいですね。ところが、諒が学校で描いたという乗馬の絵を、この目で見るまではハラハラしていました。諒には競馬も見せていましたので、あのカラフルな競争馬を画用紙に描かないだろうかと心配だったからです(笑)。キャッチャーのマインドはドクターのハートそのもの。キャッチャーというのは、バッターにプレッシャーをかけるだけではありません。うまく乗せて打つ気を誘い、バッターの心理を自在にコントロールするのが仕事なんですね。これは診療でも同じと思います。親身になって患者さんの声に耳を澄まし、患者さんの思いや願いをかなえるような相思相愛のリレーションをつくること、これこそ診療の神髄ではないでしょうか。ただやみくもに先進システムだけに頼るのではなくて、患者さんが心地よく診療を受けられるように、くつろぎ感で満たされたプライベートな環境で最適な治療を行う。それが医療の原点である気がしています。このマインドは、ドクターの右腕として欠かせない歯科技工士や歯科衛生士とのパートナーシップにも相通じますね。ドクターの判断や処置が適確であればあるほど、当然ながらチェアーサイドの時間は短縮され、テクニシャンの精神的な自信やプライドを高めることにもつながるからです。母なる吉野川の恵みを愉しみつつ少年野球の指導に尽くせたら…。料理も凝るほうです。徳島は山海の宝島でしょ。海は近いし、吉野川の恵みも大きく深い。内陸部にある長野の松本と違って、魚がうまいから、酒はきわめて淡泊。ますます魚菜に磨きがかかるわけです。ありがたいですね!その点、松本にイキのいい魚は少ないので、酒は限りなく甘くなるリクツです。ま、“酒と女は二合(号)まで”というくらいですから、ほどほどにしないと(笑)…。まだまだ若いつもりですが、心配なのは、やはり子供たちの成長です。小学生の6年間は、乳歯から永久歯に生え変わる大切な時期ですから、混合歯列のまま、急激な運動を続けるのは好ましくありませんね。精神的な情緒を保ちながら、身体の育成が促されるように配慮しなければと思います。そんな風に考えると、草野球、切手や絵画に心を奪われていた私の少年時代は、とても土臭く、あくまでもおおらかだったのではと…。かたやこれからの時代は、高齢者がますます長生きし、子供たちがどんどん少なくなります。それだけに、家庭や学校、地域社会での子供たちの存在理由が重き増してきます。ドクターとしてだけでなく、ひとりの自立した人間として何ができるのか…。幸いにも私には野球という生きがいがあります。私が得た野球の心技体を少年たちに伝えられたら…。余生を少年野球チームの指導に尽くすことができたら…。とても幸せなことだなあと。それが、私の終生のライフワークになれば、素晴らしいことですね!撮  影:永野一晃総体の出場記念メダルや、“徳島Pバスターズ”優秀選手賞の受賞記念杯は、今も大切な宝物…。パン細工など、手づくりのクラフトワークもお得意な畑野先生だ。