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DENTAL MAGAZINE デンタルマガジン

ドクター招待席
仰いで天に恥じず、伏して地に恥じず…。そんな流浪の人生を歩んで70余年。今や奥中山は第二の故郷です。
永井 司郎

2生まれも育ちも京都の永井司郎先生が、無歯科医地区だった奥様の故郷・奥中山へ赴かれて5年…。代々歯科医師の薫陶を受け継がれながら、クリスチャンとして博愛に満ちた診療の日々を送られている。悠々泰然とした奥中山の大自然を映す、その真摯なまなざしは、今も青年の輝きそのものだ。渓流には、イワナやヤマメが…。3ハンセン氏病治療に尽くした健児叔父の献身的な姿が少年の胸に強い感銘を…。私は京都府綾部市の生まれです。5人兄弟の長男だったのですが、祖父・岩太郎は医師、父は歯科医師、永井家は代々クリスチャンという家系に育ちました。そんな家庭の事情があったのですが、私が医師になろうと心を決めたのは、祖父・岩太郎の弟、健児叔父の存在でした。健児叔父は京都府立医大卒業後、岡山の長島愛生園に入り、当時は隔離を余儀なくされていたハンセン氏病の患者さんの治療に携わって一生を終えました。そんな健児叔父のひたむきな情熱と無私の心、献身的な姿に、少年時代の私は強くひかれたのですね。健児叔父という先達がなければ、今の私はなかったでしょう。医師を志した私にとっては、一生涯忘れられないほどの鮮烈な影響と感銘を受けた人物なんです。スイトン、乾パンで飢えをしのぎ、B29の焼夷弾に追われた学生時代。戦争はもうこりごり…。私は東歯医専(現・東京歯科大学)に入学しましたが、戦時中ですから食糧と言えばスイトンや乾パンだけ、ろくに勉強もままならない状態で…、当時は中野に下宿していました。そうこうするうちに終戦の年、昭和20年3月10日の神田大空襲に遭遇、空腹を忍びながら、B29が投下した焼夷弾が容赦なく降り注ぐ、東京の町並みを目の当たりにして、戦争の理不尽さ、残酷さが嫌になるほど身に染みました。終戦を迎え、故郷綾部の地で父と共に歯科診療に従事し、平和のありがたさを咬みしめていましたが、東歯同級生の故・村岡好一君の進言にて、戦後開設されていた京大口腔外科学教室に入局しました。その当時は、全国各地の歯科医師不足も手伝って、各地に病院歯科及び保健所歯科の開設が増出し、私にとってまさに波瀾万丈、流浪の10数年の始まりとなりました。福井の岩井病院を皮切りに、国立岐阜病院歯科に3年、静岡の県立病院に9カ月、京大医学部で教官助手として身を粉にして働き、京都逓信病院に7年余り勤めることになったのです…。当時、初代の京大口腔外科学教室の教授として教鞭を執っておられた、恩師・美濃口玄先生に多大なご教示をいただいたことが、その後の私の血肉になっていますが、折にふれて先生のご厚情を偲び、今あるのは先生の賜と感謝しているのです。電気エンジン→初期タービン→初期スペースライン。“医は仁術なり”を肝に銘じつつ、京都鳴滝でいよいよ開業。ちょうど38歳を迎えた昭和38年(1963年)8月、ジリジリと焼けつける炎暑日でしたが、右京区鳴滝で開業地を見つけ、ようやく身を落ちつけることになりました。でも、いざ開業と言っても、当時は給料5~6万円ほどの歯科部長の身分からの独立です、パチンコの稼ぎでようやく凌ぐような毎日でしたから(笑)。退職金40万円を足しにして診療台が買えたものの、レントゲンは友人から譲り受けるといったあり様で、とてもゆとりがある状態ではありません。場所は京福電鉄鳴滝駅のまん前。開業当日、いきなり16人の新患がありまして、受付をしてくれた女房とテンテコ舞いしたことが微笑ましい出来事…、まるで昨奥様の内助の功、スタッフの皆さんの熱烈なバックアップ!ワンちゃんが診療所に座っているだけで、患者さんは恐怖感もなく、和やかな気分で来院できるようだ。奥中山高原歯科クリニック(岩手県一戸町奥中山)永井司郎先生4日のことのように思い出されますね。御室小学校の校医の時は、千人もの子供たちを診ていました。毎朝5時に番号札を出さなければならないほど、患者さんが殺到して、目が回るように忙しい日々がしばらく続きました。若い先生方はご存じないかと思いますが、当時はエンジンの時代、現在とは隔世の感があります。クリスチャンとして、医師として、博愛の心を忘れることなく、もっと社会に役立ちたい…。女房とは、ある人の紹介で知り合ったのですが、両親が岩手県一戸町奥中山という辺鄙な山村!と知ったのは、なんと結婚後のことなんですよ(笑)。以来30有余年、“医は仁術なり”を肝に銘じて、倦まずたゆまず診療に明け暮れてきました。最近はとみに禅問答のように我が来し方、我が行く末を自問自答します。寄る年波は致し方ないにせよ、余生は一クリスチャンとして、一医師として、博愛の心を終生忘れることなく生き続けたい、そう心から願えるようになりました。いつも神を身近に感じつつ、家族や友人、自然を愛しながら、生きてゆきたい…。いつしか、そんな熱い気持ちは女房の故郷・奥中山に注がれ、あたかも神のお導きであるかのように、私たち家族は、高原の町・奥中山に向かうことになるのです。障害者の治療のために!と口説かれ移り住んで早や5年…。衛生状態にも改善の兆しが。ちょうど10年ばかり前でしょうか。義弟が獣医をしていた一戸町奥中山という縁から、稲葉町長に福祉施設“カナンの園”に入所している障害者たちの治療に一肌脱いでくれないかと、懇願されたのです。しばらくは保留にしていたのですが、女房のアドバイスや町長の口説きにオチて、奥中山へ引っ越して来たのが、ちょうど5年前のことです。この診療所は、建物の設計から診療機器や資材の調達まで、私が一切合切取り仕切りました。こちらの人口は4,000人ほどです。ところが、ずっと無歯科医地区の空白時代が長かったものですから、歯周病の患者さんが多く、町民の口腔衛生の状況は劣悪でした。しかし、ここ数年でかなり改善の兆しが見られるようになってきていますので、将来に希望をもっています。鍬を手に不毛の原野に挑んだ逞しい開拓者たち…。奥中山は血と汗と涙が培った町だった。ところで、奥中山という土地は、戦前は軍部所有の国有地でした。終戦直後、GHQ・マッカーサー長官の司令で約4,000ヘクタールもの広大な国有地が“緊急開拓事業”の名のもとに、民間に一括払い下げられることになったのです。ただし、国有地とは言っても、一年のうち半年は雪害・霜害に見舞われる自然環境の厳しい土地柄のうえ、クマザサが生い茂る酸性土壌の原野です。終戦直後の大混乱のさなか、国民の食糧増産・確保のためとはいえ、開拓は困難を極め、原野のアラギ起こし(開墾)に当たった農家の人たちや、旧軍人、復員兵、引揚者、疎開者など入植者の人たちの、血が滲むような苦労は、筆舌に尽くせないほど凄絶だったに違いありません。その奥中山開拓団(270戸)をとりまとめ、開拓事業の推進の労を惜しまなかったのが、団長の八重樫治郎蔵、副団長の野沢義雄牧師、事務局長の川守田麟三、これら三人のクリスチャンたちでした。団長の八重樫治郎蔵は女房の父ですが、野沢牧師の遺言による障害者の福祉施設“カナンの園”の建設用地を寄付したりして、開拓地の整備に少なからず貢献した人です。伝え聞くところによると、三人は酪農大学の創始者・黒沢酉蔵、酪農の先駆者・深沢吉平とともに、一本松が立つ高原の高台に立ち、“この地を乳と蜜の流れる土地にならしめ給え…”と一同声を和し、熱心に祈りを捧げたといいます。以来、半世紀を経て、奥中山は“奥中山牛乳”などの乳製品ブランドで知られる全国有数の酪農地として発展していますし、ブドウなどの果樹栽培、レタス、キャベツなどの高原野菜の栽培も盛んになりましたね。不毛未墾の原野に果敢に挑んで、鍬を奮い、荒野を豊かな牧草地と農地に一変させた開拓者たちの話を耳にするたびに、先人たちの情熱と功労に対しては、頭が下がる思いでいっぱいになってきます。東に北上山地、西に奥羽の山並み。高原の爽風、温泉のやすらぎ。満天の星座、食の豊かさ…。診療所にほど近い奥中山駅の標高は、東北本線最高地点の448mです。駅の開業は明治24年(1892年)ですから、かれこれ110年。当初は中山駅でしたが、大正4年(1915年)に奥中山に改称されました。ところが、駅名の申請は陸奥中山だったのに、いつの間にか“陸”が落ちてしまって、現在に至っているというオチがついているようです。こちらに越して来て、私がまず心を打永井先生は“カナンの園”の子供たち、青年たちに親たれたのは四季折々の自然の恵み、ありしまれ、慕われる“奥中山の赤ひげ”だ。奥中山の自然に心酔されている永井先生のご趣味は写真撮影。ここでは生きとし生けるものすべてが被写体になる。ミズバショウ群生地でのショット。5がたさです。標高668m、お花畑が広がる高森高原…、牧場では牛たちがのんびりと草を食み、銀河牧場(観光天文台)は満天の星空へと誘い、キャンプ場は家族づれや若者たちでにぎわっています。奥中山高原では、サラサラのアスピリンスノーが人気の西岳スキー場、8種類のお風呂が楽しめる奥中山高原温泉や自然休養村などが充実しているので、ゆったりと余暇を過ごせます。でも、食いしん坊の私にとっては、食べ物がうまいことが何よりなんですね。京都の周山や滋賀の安曇川で、よくアユ釣りに興じました。驚いたことに、診療所の前に北上川の源流が静かに流れ、そこにイワナやヤマメがぴちぴちと生きているんです!海釣りなら八戸や久慈…、三陸沖で穫れるカレイ、ホヤ、アワビ、カキ、サンマの醍醐味!それはそれは美味でこたえられませんよ。町の人たちが、自然の恩恵が深いこの町を“カナン(神に祝福された約束の土地)”と呼ぶ理由が、私にもようやく分かるようになってきました。“花なり”の京都は生まれ古里。奥中山は第二の故郷。まるで桃源郷ですごす余生…。京都生まれ、京都育ち、生粋の京都人の私が言うのもなんですが、盆地特有のあのジリジリと焼けつく酷暑がなければ、いい町なんですがね、京都は…(笑)。でも、たとえば辻の道々でシスター、尼さん、坊さんが一緒に立ち話していたり、並んで歩いていたりしても、ぜんぜん違和感がない…。それは京都という町の“花なり”した風情だし、古都らしい色気ではないかと…。奥中山に定住してからは、診療だけでなく、生活環境や生き方、考え方そのものがすっかり変わってしまった、と言えばそれまでですが、京都暮らしと較べると根源的に違うと切に感じます。忘れがちな四季のめりはりや移ろい、それは京都には多分に残っていると感じていましたが、ここは夏はクーラーなし、野菜が新鮮、酒も魚も天に昇るほどうまいし(笑)、人柄も穏やか…。京都人には申し訳ないが、それが文化というものではないでしょうか。医師である前にクリスチャン。クリスチャンである前に人…。一個の人であることが私の原点。幸いにも、私は環境や恩師に恵まれながら、医療人としての道を一路歩んで来ることができました。今こうして、町の人たちや施設の子供たち、家族やスタッフたちに支えられて診療に勤しめるのも、ささやかながらも毎日を平和に過ごせるのも、かけがえのない喜びであり幸せです。こちらへ来て、“和”の大切さをひしひしと感じます。都市と地方の交流や環境との共生は、これからの大テーマでしょう。しかし、無節操な開発は自然破壊を生みますね。年内に東北新幹線の沼宮内(ぬまくない)駅も新設され、東京からのアクセスがよくなります。この町では道路整備は生産物の配送・物流には欠かせないインフラですが、“持続可能な開発”という言葉がある通り、開発と環境保全のグッドバランスを忘れないこと、それが大事でしょうね。私も診療所を去らねばならない時が来るはずです。若い先生方が無歯科医地区に赴任したがらない現実があるのは、重々承知していますが、ありがたいことに、今は岩手医大から代診の先生も応援に馳せ参じてくれていますし、機転の利く優秀なスタッフたちが脇を固めてくれているので、不安はありません。“カナンの園”にも、元気いっぱいの有能な職員さんが集まってきました。“和をもって貴しとなす”…。私も医師である前に、そしてクリスチャンである前に、一個の人であることに誇りをもって生きたい…。町の人たちの健康づくりに、いささかでもお役に立ちたい…。そんな思いにふけりながら、女房といっしょに奥中山の長閑な山並みを見つめているのです。撮  影:永野一晃写真資料提供:永井司郎銀河牧場(観光天文台)は、全身に降り注ぐ星々の輝きとまたたきで、しばし時を忘れさせてくれるだろう。休日に、近くの川で釣りを楽しむ永井先生。太陽を燦々と浴びてすくすくと育つ高原野菜。今や町を支える地場産業の心強い担い手に。