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108号 SPRING 目次を見る

ドクター招待席

海も山も青く穏やか。人柄も暮らしぶりもつつましい。わが故郷・津は私の誇りです。

岩崎 正博

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ドクター招待席海も山も青く穏やか。
人柄も暮らしぶりもつつましい。
わが故郷・津は私の誇りです。

■目 次

岩崎歯科(三重県津市) 岩崎正博先生岩崎歯科(三重県津市)
岩崎 正博 先生
“伊勢は津でもつ”と語り継がれて幾百年…。
伊勢街道に程近い城下町の一角に、岩崎正博先生の診療所がある。
患者さんの肩をポンとたたきながら、“がんばりや!”と励ます気さくなお人柄。
半世紀にわたる多忙な診療生活にもかかわらず、岩崎先生の心中には、
いつまでも色あせない瑞々しい夢が息づいていた。
その情熱が植林ボランティアとして開花し、結実していった…。
謙虚でつつましいお人柄そのままに、わが来し方を語られる岩崎先生。
その瞳のなかに、白砂青松の海岸線がどこまでも広がっている。

■病気で学徒出陣を断念。生きながらえて勉学の道へ。

[写真] 波静かなリアス式海岸の湾内。
波静かなリアス式海岸の湾内。
生まれた土地でも育った土地でも、故郷というものはいいものですね。私はサーキットで有名な鈴鹿市の生まれなんです。父の歯科医院から津第一中学まで約15キロの道程を自転車通学する毎日でした。
身体を鍛えようと剣道部に入部したまではいいものの、正直言って規律も習練も手厳しく辛かったですよ。でも、その厳しさのおかげでしょう、肉体的な鍛練はもちろんですが、少々の試練や逆境などを跳ね返すだけの強かな精神力が、その時に培われたんじゃないかと思います。
時折しも太平洋戦争の真っただ中。昭和19年に上京し、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学歯学部)に入学しました。ところが、幸か不幸か、私は肋膜を患っていたために、学徒出陣の壮行会に出られず、戦地の土を踏むことはありませんでした。
無念にも多くの同級生の戦死を見届けました。しかし、出征できなかったことで、同級生たちが果たせなかった学びの道に突き進むことができ、勉学に勤しめたことは、せめてもの恵みと今でも心から感謝しているのです。
在学中、東京大空襲に遭遇しました。私は視力が2.0もあったからでしょう、空襲警報が鳴ると防空壕に入らず、防空監視班としてB29の飛来をじっと見届けなければなりませんでした。黒々とした夥しい機影を目の当たりにしても、恐怖心よりも使命感のほうが強かったのではと思います。
国威発揚、一億玉砕の空気のなかでは、ごく普通の国民の心境だったでしょうね。ですから、まさかあの戦争に負けるとは、その頃は夢にも思いませんでした。しかし、遂に終戦の日が来ます。昭和天皇の玉音放送の前に、国民のだれもが立ちつくすことになりました。あまりにも悲惨な犠牲を払った戦争でしたが、戦火で荒廃した町々にもやがて復興の土音が響き始めたのです。
当時、学内ではこんな経験もありました。戦時中、授業はドイツ語オンリーだったのが、終戦と同時に手のひらを返したようにドイツ語は学内から一掃され、教師たちはそそくさと英語を使い始めたのですから…。それはそれは驚きでしたね(笑)。

■耐乏と復興のさなかの開業。虫歯治療に忙殺される日々…

[写真] さまざまな地域文化活動を意欲的に展開してきた津文化協会の皆さん
時を惜しまず、知恵を出し合い、互いに協力しながら、さまざまな地域文化活動を意欲的に展開してきた津文化協会の皆さん。
半世紀以上の時間は、戦争体験を風化させざるをえません。戦後の民主化、平和憲法の制定、経済成長と日本は平穏と豊かさを手に入れたものの、一方ではその豊かさの陰で多大な犠牲も払っている気がします。
たとえば、食生活ですね。洋風化にともなって、レトルト食品やファーストフードが軟食化を加速し、顎骨の未発達や意欲の低下にまで影響を及ぼしています。それを身に染みて感じているのが、私たち歯科医だと思いますが…。
戦後の混乱と耐乏生活のさなかの昭和22年、私もどうにか卒業まで漕ぎ着けました。父を筆頭に親類筋に医者が多かったことも幸いして、昭和24年1月に早々と開業できたのです。
歯科医師会に入会した時のこと、当時の津歯科医師会長さんが、「ありがとうございました」と、私の入会をいたく感謝されたことが忘れられません。そのことが強い励みになって、診療への意欲がますます高まってきましたから…。
とはいえ、爆撃を受けた津市内はどこもかしこも焼け野原。だれもが食うや食わずの暮らしでしたが、やがては患者さんの“洪水のような虫歯”に圧倒される日々…。朝9時から夜10時まで、息つく暇もないくらい、猫の手もかりたいくらい、まさに忙殺の日々でしたね(笑)。
ありがたいことに、今は午前中だけの診療になりましたし、隔週土曜日だけは次男が東京から手伝いに来てくれていますので、安心して診療に携われるのは、ほんとうに幸せなことです。

■津文化協会に集まった多彩な人との交流が今は生きがい。

[写真] 経ケ峰(819m)登山
経ケ峰(819m)登山は、岩崎先生のひそかな楽しみのひとつだ。伊勢平野は、その昔、平氏の発祥地で、西方の経ケ峰は平清盛が天下の平安を祈ってお経をおさめた言い伝えがあり、東側3kmの地点には、産湯を使った産品(ウブシナ)の記念碑がある。
どんな職業でもそこに留まっている限り、視野が狭くなり、いつの間にか未来の可能性が摘み取られてしまうことが往々にしてありますね。
数十年間、息もつけないほど多忙な毎日に明け暮れる生活でしたが、ビジョンや夢のある生き方をずっと求め続けていました。診療の世界だけでなく、さまざまな人たちと力を合わせれば、自分はもっと社会に役立つことができるはずだ。そう思っていたのです。
折りも折り、10数年前ですが、ある方の紹介で津文化協会に顔を出すようになり、そんな自分の夢をかなえる足掛かりを見つけることができたのです。
協会では、映画、演劇、絵画、音楽など、世代を越えた多彩な地域文化活動を地道に積み重ねて来ました。そういえば、指揮者の小澤征爾さんや、女優の宮城まり子さんに講演してもらったこともありましたね…。
現在、協会の会長を仰せつかっていますが、市民の皆さんが親睦や交流を深められる、この協会の仕事を続けられることに大きな生きがいと誇りをもっています。

■植林ボランティアで知ったかけがえのない地球環境の尊さ。

[写真] 伊勢湾を望む海岸沿い
伊勢湾を望む海岸沿い。ボランティアの人たちの力も借りて一本一本手植えした松がすくすくと育ち、浜風にそよいでいる。
市の教育委員会の人と親しくなったことがきっかけで、微力ながら海岸の植林ボランティアを市民の皆さんと始めたのが、十数年前です。
津には港、海上交通や交易の拠点という意味があります。古くは安濃津(あのつ)と呼ばれ、鹿児島坊の津・博多とともに日本三津として栄えました。その後、藤堂藩三十二万石の城下町が築かれますが、古くから“伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ”といわれるように、伊勢参宮の宿場町としても大いに賑わいを見せました。
15世紀末の大地震や昭和34年の伊勢湾台風など、自然災害の爪痕も刻む町ですが、伊勢湾を望む白砂青松の景観は、市民にとってかけがえのない心の安らぎとなっているのです。
このように伊勢湾沿いの津は古代から現代まで、海の恩恵に浴しつつ、海とともに歩んできたわけです。
[写真] 渾身の作品“お人形さん”
チャーチル会で無心で描くことを知ったとおっしゃる岩崎先生。渾身の作品“お人形さん”
市のマスタープランでも、自然環境との共生をビジョンに掲げていますが、戦後一貫して海岸の保全・整備や水辺の風致に力を注いできたのは、そういった、津ならではの精神的な風土があったからに他なりませんね。
この植林ボランティアは、三重大学の梅林先生のご指導のもとで、津文化協会の会員の皆さんをはじめとして、学生さんや子供たち、主婦など幅広い市民の皆さんが多数参加して、およそ10数キロに及ぶ津海岸中河原の砂浜に松の苗木を、また、白金環境清掃センター16.5ヘクタールの斜面に椿、柳、あじさい、つつじ等、ボランティアの力も借りて、数百本手植えしてきました。
その汗と努力のおかげで、わずか10数年で浜辺等、景観が甦ったのはもちろんですが、その松林が防風・防砂林としても、大学の植生研究にも大いに役立つことになったのです。

■親から子、孫へ伝わる歴史遺産。わが故郷・津は誇り。

[写真] 昔ながらの風情が残る参宮街道・おはらい町通りのたたずまい
昔ながらの風情が残る参宮街道・おはらい町通りのたたずまい。
地球環境を守りながら、次世代に手渡すことは、この世紀に生きるすべての人の使命だと思っています。
植林ボランティアの活動を通して、さまざまな人との出会いがありましたが、植林に関わったことから“樹木医”の資格も得ることもできました。
本業はもちろん歯科医なんですが、本音をいえば、この世から歯科医という仕事がなくなればいいと、そうひそかに願っているのです。なぜなら、医食同源、健全な食生活と適切な健康管理さえ徹底すれば、少なくとも医療は予防的価値しかなくなるからです。
それはともかく、私にとってエコロジカルな生き方の尊さを教わったのは、やはり植林ボランティアの活動でした。でも、それは偶然ではなく津という海際の町に生きる一人の人間にとっては、必然であったと…。近頃はそう思えるようになりました。
郷土史をひも解くまでもなく、わが故郷・津では、親から子へ、子から孫へ価値ある歴史遺産が手渡され伝えられていることが実感できますね。
[写真] 織田信包によって築城された津城
織田信包によって築城された津城は、明治維新まで32万石の城下町として栄え、今はお城公園として市民憩いの場として親しまれている。
たとえば、旧街道を偲ばせる伊勢街道沿いの八幡町や寺内町の佇まいも、日本三観音のひとつとされる津観音もそうです。藤堂高虎ゆかりの津城跡や古刹も少なくありません。高虎は城下町に心血を注いだだけでなく、商人の移住や学問の振興にも意欲的で藩校・有造館も建てました。
学問といえば、日本の国語辞典の黎明というべき「和訓栞(わくんのしおり)」を編纂した国学者・谷川士清(ことすが)も、津の人だし、平清盛の父・忠盛の生地、平氏発祥の地とも伝わっているほどですから…。その平氏も全盛だった清盛の父・忠盛の時には、伊勢の平子(瓶子)は素瓶(すがめ)と言われてさげすまれたこともありました。(とは、“出来上がった本物の焼物の手前の状態”をいい、またあわせて、“目がおかしくてやぶにらみの状況”をも、といいます。)
海も山も近い。人柄も穏やかでつつましい。そんな故郷を誇りに思います。たとえささやかでも、おおらかな大志をもって生きることの大切さ…。
わが故郷・津は、そんな人生があることをそっと私に教えてくれたのです。

撮影:永野一晃
写真資料提供:岩崎正博

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