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111号 SPRING 目次を見る

ドクター招待席

カタムチョ(意固地)に泣かされる。冬の地吹雪がつらくて泣かされる。なのに別れづらくてまた泣かされる。鶴岡は泣き泣き情があったまる町なんですね・・・。

大井 篤

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ドクター招待席カタムチョ(意固地)に泣かされる。
冬の地吹雪がつらくて泣かされる。
なのに別れづらくてまた泣かされる。
鶴岡は泣き泣き情があったまる町なんですね・・・。

■目次

山形県鶴岡市 大井 篤 先生(山形県鶴岡市)
大井 篤 先生
桜が乱舞する春、蝉しぐれが青葉に染み入る夏。
黄金色の稲穂が風に傾ぐ秋。
水墨画のような雪景色に心を奪われる冬。
四季の風合いが風紋のように美しい、庄内藩酒井氏14万石の城下町、鶴岡。
木訥温厚、質実剛健の庄内人の気風はなお健在だ。
藩の御殿医としての家系の歴史を脈々と刻んでこられた大井家。
その16代目を受け継がれているのが大井篤先生だ。
「雪の降る町を♪」を口ずさみつつ、郷土の作家・藤沢周平の世界にひたりながら、大井先生はどのような60余年を歩んで来られたのだろうか…。

■四季折々の移ろいが美しい金峯山を飽きもせず眺めていた少年時代。

昭和16年(1941年)、この裏手の五日町が生まれた所です。篤の名は祖父・友篤の一字をもらいました。昭和天皇と同じ誕生日の4月29日に生を受けたことに、私はとてもこだわりと愛着を感じています。
幼少期で忘れられないのは、空襲警報が鳴り響いて、裏庭に掘ってあった防空壕に急いで飛び込んだことです。また、髷を結っていた祖母の面影や、隣の醤油屋の醤油臭さに閉口したことも忘れられません。その祖母は結構ユーモラスなところがあって手品のようなことを私にみせてくれました。おせんべいを天井めがけて放り投げて「せんべい無くなった」というものでしたが、子供には不思議でしかたありませんでした。今思えば放り投げたまねをしただけですよね。
父・友慶の自転車の荷台で見た満天の星の美しさには心を奪われたこと、裏庭に成っていた真っ赤なグミのうまかったことなどが折に触れて思い出すことがあります。3、4歳の頃ですが、小父夫妻に連れられて湯野浜温泉の宮島屋に泊まりました。打ち寄せる高波の音が耳について眠れなかったこともなぜかよく覚えていますね。
終戦の昭和20年頃、わが家は賀島町に引っ越しましたので、父は五日町の歯科診療所に通勤することになりました。それからまもなく祖母は亡くなりましたが神道の葬儀だったので質素だったようです。実は曾祖父か祖父が地元の寺の住職と喧嘩をして神道に変えていたのです。父没後に願望だった元々の菩提寺の般若寺に変えました。イヤー参りました。380年に近い回忌が何回かありました。つくづく古いなーと思いました。私は鶴岡カトリック教会のマリア園に通い始めました。ほのかな恋心を抱いたのはこの頃でしょうか。おませだったんですね(笑)。数年前、偶然に彼女に遇いましたが、魚屋のおかみさんになっていました。
ところで、私が入学した朝暘第一小学校は、当時は庄内藩校致道館の中にありました。歴史ある場所で勉強できることに、子供心にもエリート意識を感じながら通学していました。
いつまでも忘れられないのは、四季折々に表情を変える金峯山を、賀島町の2階からいつも眺めていたことです。それに鶴岡の冬は厳しいので、マントに長靴は必需品。当時はどこの家も火鉢や薪ストーブの暖房でしたから、わが家にアラジンの石油ストーブが入った時は、あの鼻をつくような臭いに時代の進歩をほのぼのと感じましたね。

  • 文化2年(1805)、9代藩主酒井忠徳(だだあり)が荻生徂徠の教学を基本に、士風を刷新し藩政の新興を図るために創建した庄内藩校致道館
    文化2年(1805)、9代藩主酒井忠徳(だだあり)が荻生徂徠の教学を基本に、士風を刷新し藩政の新興を図るために創建した庄内藩校致道館。東北地方で唯一現存する藩校建築(国史跡)だ。論語の「君子ハ学ビヲ以テソノ道ヲ致ス」から命名された。
  • 庄内が生んだ作家・藤沢周平を育み、大井先生が飽かず眺めた金峯山(きんぼうざん)
    庄内が生んだ作家・藤沢周平を育み、大井先生が飽かず眺めた金峯山(きんぼうざん)。その昔、山伏の修験の場でもあったという。春夏秋冬、表情を変える山容は、今も大井先生の胸を懐かしさで満たす。
  • 湯殿山の麓、朝日村田麦俣の多層民家
    湯殿山の麓、朝日村田麦俣の多層民家。山村豪雪地ならではの、兜造りと呼ばれる豪壮な茅葺き屋根が優美だ。

■黄昏せまる雪道で耳にした「雪の降る町を♪」の切ないメロディ。

大井家伝来の名刀
大井家伝来の名刀。大井先生ご自身も推し量れないとおっしゃる程の価値と存在感が感じられる。
槍先に金粉を施して錆を防ぐ
槍先に金粉を施して錆を防ぐという。メンテナンスも怠れないのが家長の勤めなのだ。
小学2、3年の頃でしょうか、しんしんと雪が降る黄昏どき、父に灯油を買って来いと言われたことがありました。私は一升瓶をぶら下げ、歩いて10分ばかりの七日町の油屋に出かけました。寺を二つ過ぎて、こわごわ帰る道すがら、どこかの家のラジオから高英雄の歌う「雪の降る町を」が流れてきました。冬になって真綿のような雪が木々に積もると、この切ない旋律が胸に蘇り、なぜかセンチメンタルな気分になるのです。よくお使いは行きました。「百匁200円のお茶を二百匁」買ってくるのですが、途中で忘れて引き返し、聞き直してまた出掛ける、といった有様で(笑)。T V番組の「初めてのお使い」を観るたびに泣けてくるのは、微笑ましい思い出のせいかも知れません。
小学4、5 年生の頃はスキーよりも長靴スケートをやりました。バスのバンパーにつかまって駅まで滑るのです。圧雪されたテカテカの道は転ぶとそれは痛かったのですが、性懲りもなくまたやりました。ろくな防寒具もないし、しもやけも痛いのに、一心に遊びに興じられるのは、いつの時代も子供だけに許された特権なんですね(笑)。大井家伝来の名刀
大井家伝来の名刀。大井先生ご自身も推し量れないとおっしゃる程の価値と存在感が感じられる。
槍先に金粉を施して錆を防ぐ
槍先に金粉を施して錆を防ぐという。メンテナンスも怠れないのが家長の勤めなのだ。

■家系図、酒井の殿様の書状、三鱗紋の家紋を大切にしていた父。

初代・大井右近ゆかりの掛軸
初代・大井右近ゆかりの掛軸が伝承されているのも、綿々と連なる大井家の刻の重みを感じさせる。
大井家の家系図によると、庄内藩の御殿医として務めた初代大井右近から数えて、私は第16代目に当たります。家紋は北条家と同じ三鱗紋です。
明治維新の廃藩置県で曾祖父・友益は、奉公人ともども温海村早田(現在の温海町)に転居しました。そこでは塩を作るための塩焚きを行っていましたから養うためもあったのではないでしょうか。戦後しばらくまで続いていました。ムシロがけの小屋を覚えています。祖父・友篤は村医でしたが、その五男坊の父は言うに言われぬ苦労を重ねたようです。というのは財産のほとんどは祖父の異母兄弟らに食いつぶされたそうです。
僅かに残った財産といえば、御殿医の誇りというべき数点の品々に過ぎません。父は家系図と酒井の殿様の書状、三鱗紋の家紋をとても大切にしていました。なかでも殿様から下賜された脇差「粟田口藤四郎吉光」は廃藩の際に曾祖父・友益が殿様に返上したという一札をいただいていたことを、父はたいそう喜んでいました。
父は絵心もあり、文筆にもたけていました。15代となるべき二つ上の兄・友信は京都の医学校に学んだものの若死にしていますが、弟の父を可愛いがってくれたようです。ところで父の診療所は友人宅の間借りで、賀島町からの通勤でしたから、私は家から20メートル先にある角地の石にまたがって父の帰りを毎日待っていたものです。父の姿を見つけると、自転車の後ろに慌てて飛び乗りました。父はもう少し仕事をしたかったのでしょうが、大家の友人は酒癖が悪く診療中でも難癖をつけにくるため、仕方なく帰って来ることが何度かありました。もっとも当時は皆保険の時代ではないので、夕方の5時には診療終わりという時代だったのです。初代・大井右近ゆかりの掛軸
初代・大井右近ゆかりの掛軸が伝承されているのも、綿々と連なる大井家の刻の重みを感じさせる。

■明日は明日の風が吹く… 飄々とした気風の父が好きでした。

詩人・草野心平の親族から贈られた掛軸(無尽蔵)
居間には詩人・草野心平の親族から贈られた掛軸(無尽蔵)がさりげなく掛けられていた。
賀島町の2階には技工室がありました。夕食後は勉強よりも父の技工をじっと見るのが好きでした。それよりも好きなことは胡座をかいた父の膝に腰掛けて、父と友人の話を聞くことでした。こうして耳学問で雑学に強くなったのは父のおかげかも知れませんね(笑)。刀剣や槍に触れたり、古文書を見聞きするたびに、どきどきする気持ちで、その時代に思いを馳せる子供でした。
父は読書家でもありました。特に財界人や偉人の自叙伝は好んで読んでいましたね。私が日本大学歯学部入学後、父は私に「これを読んでみろ」と二冊の本を差し出しました。D. カーネギーの「道は開ける」と「人を動かす」です。悩みはその原因を突き詰めれば解決できることも、他人に感謝を求めない謙虚な心の大切さも、この二冊の本から教わりました。すべて父の恩恵だと思っています。今も私の座右の二冊なんです。
金持ちになるなら「金持ちの娘」に婿入りが良いのですが、父は運よく母の実家が「中地主?」だったので、新婚時代の鎌倉でもかなり援助してもらっていたようです。借金するにも大変難しい時代だったのかもしれないですね。「北の間」という庭に面した部屋で、ピースの紫煙をくゆらせてお茶を飲みながら物思いにふけっている父を思い出す時があります。明日は明日の風が吹く…そんな風に達観していた父の存在が、今でも羨ましくもあり、誇らしくもあります。詩人・草野心平の親族から贈られた掛軸(無尽蔵)
居間には詩人・草野心平の親族から贈られた掛軸(無尽蔵)がさりげなく掛けられていた。

■「真珠の首飾り」「インザムード」… 擦り切れるほど聴いたSP盤。

小学校4、5年の頃、「歯医者にはならない」と母に漏らしたことがありました。それを耳にした父は、寝ている私を起こして烈火のごとく怒りました。父の夢は兄が医師、私が歯科医師だったのですが、私は画家か政治家に憧れていました。優秀な兄にはとても及ばないし、歯科医師は到底無理だと思っていたのです。
父は兄を医学部に入れて、なんとか医家としての大井家を再興したい一念だったのでしょう。ところが、英語の学者になりたかった兄は、反抗して合唱部に入ったり、NHK鶴岡局の軽音楽バンドでクラリネットを吹き始めたりしました。
その影響で私はベニーグッドマンやグレンミラーの軽快なスウィングジャズが大好きになり、SP盤の「真珠の首飾り」や「インザムード」にすっかり心を奪われてしまいました…。オーディオセットは夢のまた夢、学生時代はもっぱらラジオで、セミクラシックやスタンダードジャズを聴いていましたね。ジャズの話になるとコーヒーのいい香りが漂ってきます。私のコーヒー好きは父譲りで、10 歳頃にヒルスブロスを味わってからです。学生時代は喫茶店に入り浸っては、ジャズとコーヒーに明け暮れてましたから…。鶴岡のコーヒー専門店コフィアのマスターに教わって、標交紀(しめぎゆきとし)さんの「珈琲の旅」を読んでからは、香しく味わい深いコーヒーの迷宮にすっかりはまってしまいました。コーヒーは豆と培煎が命なので、プロが煎れた一杯に限ります。いずれは私もその境地に一歩でも近づけたらと願っているのですが(笑)。

■「たそがれ清兵衛」にご先祖の生きざまがダブります。

大宝館
大宝館は大正4年(1915)、大正天皇の即位を記念して建てられたオランダバロック風の建物だ。
直木賞作家の藤沢周平さんは鶴岡の高坂の出身です。数々の時代小説を書き残していますが、「たそがれ清兵衛」は病弱な妻とひっそりと暮らしていた剣の使い手が上意討ちする話です。映画にもなり、湯田川温泉の由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ)で撮影ロケもありました。
かつて私は、磯田道史氏の「武士の家計簿」に書かれた加賀藩御算用者の幕末維新の生活ぶりを知って、大井家のご先祖を身近に感じ、愛おしさまでを覚えたことがありました。
ですから、故郷庄内をこよなく愛した藤沢周平さんの人間愛や優しさに触れて、ご先祖は何を思い、どんな暮らしぶりをしていたのだろうと、思い巡らしたのです。御殿医だった曾祖父・友益も、藩主の命で止むに止まれず、毒を盛って人を殺めたこともあったのだろうか、などとあらぬ心配をしたりしましたね(笑)。事実、幕末の庄内藩は改革派(公武合体派=国学、蘭学)と佐幕派(儒学)が対立していました。
金融破綻や汚職・買収など、藤沢文学は現代社会にも通ずる時代小説が多いですが、私が共感するのは、いちずで、情が深く、それでいてちょっとカタムチョ(意固地)な庄内人の気質にほろっとくるからなんです。
鶴岡に来た新参者は3度泣かされると言いますね。すぐに心を許さず、なかなか中に入れてもらえなくて泣かされる。雪深い辺鄙な気候風土が辛くて泣かされる。それでも最後は別れづらくてさめざめと泣かされるんですよ(笑)。大宝館
大宝館は大正4年(1915)、大正天皇の即位を記念して建てられたオランダバロック風の建物だ。

■家族が創る一家の歴史。私はまれに見る幸せ者です。

映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督作品)の撮影ロケ地となった、湯田川温泉の由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ
映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督作品)の撮影ロケ地となった、湯田川温泉の由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ)。地元の町民たちが多数エキストラ出演して話題になった。
大井家に生まれ育ったプライドを忘れず、いつも襟を正す思いで生きていきたい。脈々と伝えられてきた一家の伝統と情熱を、この私も息子にリレーしていきたい。そう思っています。幸い次男が歯科医を継いでくれていますので、ほっと安心しているところです。
余談ですが、妻は大阪人ですが、辛い時も楽しい時も、私を見守ってくれています。長女は母似なのか、思いやりのある娘に育ってくれました。そんな妻や子供たちに恵まれた私は幸せものだと、近ごろつくづく思っているところなんです。
ところで、私のテーマミュージックは「80日間世界一周」なんです。昇天の日はこの曲を葬送曲にして、晴れやかに送ってほしいと妻に頼んであるんですよ。映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督作品)の撮影ロケ地となった、湯田川温泉の由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ
映画「たそがれ清兵衛」(山田洋次監督作品)の撮影ロケ地となった、湯田川温泉の由豆佐賣神社(ゆずさめじんじゃ)。地元の町民たちが多数エキストラ出演して話題になった。

撮影:永野一晃
塩作りの歴史:http://www.shiojigyo.com/etc/making02.html

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