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ドクター招待席

英国のRACラリーに再挑戦するのが夢! それをラリー人生のラストランに・・・

大庭 誠介

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ドクター招待席英国のRACラリーに再挑戦するのが夢!
それをラリー人生のラストランに・・・・。

目 次

大庭歯科医院(静岡県浜松市) 大庭誠介先生大庭歯科医院(静岡県浜松市)
大庭誠介 先生
スリリングな走りに憧れて、20歳で始めたラリーを45歳でいったん引退後、なんと50歳で敢然と復帰!今や国内でも海外でも、名だたる名ドライバーとして知られている大庭誠介先生。多忙な診療にもかかわらず、ラリーを続ける強かな情熱はどこに潜んでいるのであろうか。還暦を迎えたら、もう一度英国のRACラリーにチャレンジしたいと、よく日に焼けた笑顔をほころばせて、にこやかに話される大庭先生。そのラリー人生の醍醐味をたっぷりと伺った。
[写真]

どのようなきっかけで車やレースに興味をもたれたのですか。

[写真] ランサーターボグループA仕様
1983年世界選手権「英国RACラリー」にて<ランサーターボグループA仕様>
戦後のベビーブーマー、団塊の世代といわれる私たちですが、日本の戦後の高度成長を支えていたのは、いったい何だったんだろうって考えます。戦争で疲れ果てた国民は、平和で豊かな暮らしを渇望していたでしょうし、欧米文化に強い憧れを抱いていただろうと思います。そのひとつの象徴が、車という新しい文化でした。
すでに欧米には車の大衆化の波が押し寄せていましたが、日本はまさに追いつけ追い越せの時代。車が右肩上がりの戦後社会を背負ってきたことは衆知の事実です。
男の子ならだれでも、小さい時から車が好きになりますね。私の場合は、2歳上の兄が“カーキチ”でしたしたが、私自身は中学時代に「自動車工学」という専門書を教科書がわりに熟読するほどの車フリークになっていました。親に頼み込んで、念願だった第1回全日本鈴鹿グランプリを見に行くこともかない、大いに興奮したのを覚えています。
その頃はロータス23とかジャガータイプDにいたく憧れていまして、いつかは自分もレーサーになりたい!という思いは、その頃に芽生えたようです。

テクニックはどのようにして身につけられたのですか。

高校に入ると、私の車好きはさらにエスカレートしていきました。当時は16歳で自動二輪か軽四輪の免許が取れましたので、最初は自動二輪に挑戦しましたが連続4回も失敗、軽四輪は2回も失格となり、“次がダメなら自分には才能がない”と腹をくくりました。ところが、7回目でようやく合格することができたのです。
その頃、ホンダの名車CB72を毎日のように仲間と乗り回していましたが、ある日、ひとりがトラックに激突して即死、もうひとりが半身不随になったことで、親が猛反対。バイクを取り上げられるハメになったのです。
ところが、捨てる神あれば拾う神ありですね。ラッキーなことに、どういうわけか軽四輪だったらいいと許されたのですから。
当時は、雑誌の知識だけをたよりに、駐車場で“ヒールアンドトウ”を体で覚え、毎晩のように、田舎道のコーナーを走りながら“スローインファーストアウト”だの“アウトインアウト”だのを自己流でマスターしました。
そして、レーサーの高橋国光さんに会って“まず止まることを覚えなさい。50km/hの速度だったらどこで車が停止するのか、それを体で覚えなさい”と教わったのもこの頃です。日曜日には名古屋や富士周辺を西に東に走り回っていましたから、車なしでは夜も日も明けないって感じでした。

どのようにしてラリーに出場するようになったのですか。

[写真] チームアドバン時代のモータースポーツ雑誌の特集記事
チームアドバン時代のモータースポーツ雑誌の特集記事
大学では自動車部に入りました。入部して1カ月後に初めてラリーに出て、自動車競技のおもしろさに取りつかれたようです。1・2年の時は友人のスプリンターで走っていましたが、3年の時に祖母にねだって手に入れた中古のカローラ1100をラリー車に改造して、関東地区のJAF公認ラリーに出場したりしました。そんなこんなで関東地区では、だんだん注目されるようになってきたのですね。
ところが、静岡のGGMCというクラブが主催したラリーに出た時のことです。南アルプスの野呂川林道の下りで車のコントロールを失って宙ぶらりん、危うく崖下の川に転落するところでした。その一件以来、ラリーに出場する前には下宿の部屋をきちんと片づけ、下着も新品に着替えるようになりました。
4年生の時ですが、ギャラン16Lに乗って、JAF準国内ラリーで初めて総合優勝することができました。それからは、横浜タイヤがスポンサーについたり、チームマーシャルというランプメーカーのファクトリーチームに入って契約金300万円を貰ったりしました。
ちょうど開業の年(1979年)になりますが、横浜タイヤのチームアドバンに籍を置いてからは、着実にラリーの戦列に参戦できるような環境が整ってきたのです。
といいますのは、チームアドバンのファクトリーチームに所属してからは、レーシングスーツとヘルメット、身の回りのものをもってスタート地点へ行くだけでよかったからです。現地には整備ずみのラリー車がスタンバイして、タイヤサービスやエンジンメカニックなどのすべてのサポート体制が迎えてくれていたからです。この年は全日本ラリー選手権で総合5位に食い込むことができました。

忘れられないラリーの思い出はありますか。

[写真] 1987年世界選手権「RACラリー」総合11位ゴール地点
1987年世界選手権「RACラリー」総合11位ゴール地点<於:チェスター>
忘れられないといえば、やはり1977年からチャレンジし始めたイギリスのRACラリーですね。このラリーは総走行距離3,200km、第1レグ12時間走行して5時間休憩、続いて36時間走行して5時間休憩、再び36時間走行、イングランドからウェールズ、スコットランドとイギリス全土を走破する、チャレンジスピリットをかきたてる苛酷でスリリングなラリーです。
合計14回挑戦しましたが、ようやく7回目に完走して総合18位、10回目に三菱スタリオンターボで総合11位という成績を残せました。トップ10入賞というのは、あの篠塚健次郎ですら破っていない記録なんです。
RACラリーにチャレンジしている間も、国内ラリーには意欲的に参戦していました。ラリーという競技はドライバーとナビゲーターのコンビネーションが肝要なんですが、ペースノート(ペース配分)がしっかりできていても、ドライバーのノリが悪いとリタイアすることもあります。
40歳という年齢的な限界は、どんな世界にもあると思いますが、ラリーのドライバーは路面や天候のコンディションに応じて、ブレーキングやスピードの調整を刻一刻と瞬時に行わねばなりません。確かに20~30歳代は体力にもの言わせて、無茶もしました。しかし、40歳代になると視力も徐々に落ち、トータルな意味でフレキシブルな能力の低下を避けることはできませんでした。いつかはピークは去るもの、いつかは幕引きする日が必ず来る、そう自分に言い聞かせていました。
ところがです。引退する前年の1994年には、全日本ラリー選手権で3戦連続優勝という思いもよらない快挙を達成してしまったのです。数ポイント差で総合優勝には届かなかったですが、“これが自分のピーク、引き際が大事”と引退を決意しました。実際はさらに1年続け、四半世紀にわたって性懲りもなく走り続けたラリーに終止符を打つことになったのです。

ラリー引退後はどうされていたのですか。

[写真] 主だったトロフィーの一部
主だったトロフィーの一部
根っからの趣味人なのでしょう、引退後は外洋ヨットレースに懲り始めました。この4年間はFarr31IMSというヨットで、日本外洋帆走協会東海支部で4年連続してシリーズチャンピオンにもなりました。
でも、私にはラリー好きというDNAでもあるのでしょうか、5年間も遠ざかっていたラリーでしたが、スペインのREPSOLというオイルメーカーがメインスポンサーについたことがきっかけで、ちょうど50歳になった2年前からラリーに復帰することになりました。
その年は9月の全日本ラリー北海道ラウンドでは何とか5位、全日本選手権最終戦で6位と大健闘できましたし、昨年もCMSC青森ラリーで総合優勝することができました。まさに“昔とった杵づか”が甦ったわけですが、久々にチャレンジする快感、完走できるという自信が体中に漲るのを感じましたね。

ラリーをずっと続けられている秘訣は何でしょうか。

[写真] 2000年7月国内有数のヨットレース“鳥羽パールレース”でIMS総合優勝
2000年7月国内有数のヨットレース“鳥羽パールレース”でIMS総合優勝。本年のポスターに採用された。
秘訣かどうか分かりませんが、やはりラリーを楽しむゆとり、ラリーを諦めない熱意、何よりも継続しようとするかたい意志ではないでしょうか。
私が人の車の助手席に座るようになったのは、40歳代になってからなんですね。それに深い意味はないんですが、車は自分がハンドルを握って乗るもの、おおげさに言えば自分の責任で楽しんで乗るもの、それが私の持論なんですね。ラリーも同じです。当然ながらラリーの直前は万全のコンディションを心がけます。
今は月1回の出場ペースですが、金・土・日曜日がレースなら、木曜日の午後は診療は休んで準備にかかるのが普通ですね。
ラリーはあくまで趣味として楽しみたいので、診療を第一に考えていることはもちろんです。やはり歯科医は天職なんだと自分なりに思い込んでいます。これからは高齢社会ですし、“テンポラリー・アビリティ”というように、だれもが心身のハンディをもつかも知れない時代ですから、今後も継続して障害者歯科の領域にも、力を注ぎたいと考えています。
今では休日に家内と気楽にドライブするのも好きですし、いくつになっても車に乗っているのが楽しくて仕方がないんです。
今ひそかに目論んでいる夢があります。それは60歳の還暦の年に英国のRACラリーにもう一度挑戦することです。それが私のラリー人生のラストランになればと…。その日の勝利を目標に、これからもラリーを大いに楽しみたいですね!

撮影:永野一晃
写真資料提供:大庭誠介 LAP TIMES RACING ON auto technic

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