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107号 WINTER 目次を見る

ドクター招待席

今できることから始めた国際交流。平和と友情への夢を絶やさずに、これからも世界の現実を撮り続けていきたいですね。

山本 直哉

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ドクター招待席今できることから始めた交際交流。
平和と友情への夢を絶やさずに、
これからも世界の現実を撮り続けていきたいですね。

■目 次

岩崎歯科(三重県津市) 岩崎正博先生山本歯科医院
(滋賀県安曇川町)
山本 直哉 先生
尊父・文顕ふみあき氏の慈愛と勇気に支えられた直哉少年の心は、
いつしか国境を越えた国際交流への夢を大きく育んでいった…。
柔和なお人柄、尽きることのない好奇心、豊かな趣味性…。
その類い希な恵まれた素養を決して奢ることなく、あくなき情熱をエナジーにして、
フォトジャーナリストとして世界90カ国を悠然と旅してこられた山本直哉先生。
多くの恩師や友人とともに青春を謳歌され、国際親善に貢献されてきた、
そのグローバルで人間味あふれる、
“ドクター・ヤマモト”の半生を語っていただきました。

■琵琶湖の湖上に静かに浮かぶ船影やえりののどかな風景、素朴な人情を映す安曇川の流れ。

私の70余年の人生をたどる前に、安曇川あどがわ町を少し紹介しておきましょうか…。
この町は、“高島の安曇の都を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ”と万葉集にも詠まれている歴史ある町です。上流の朽木村くつきむらから産出した木材の筏流しは、昭和の初め頃まではこの地方の名物でした。5月頃になると、安曇川の河口近くに作られる弓形のやな、これは川の水をせき止めて捕獲する漁法ですが、湖西地方ならではの風物詩ですね。
歴史上の人物では、江戸時代中期の儒学者で日本陽明学の祖、近江聖人と称される中江藤樹が生まれた土地。藤樹神社、中江藤樹記念館、玉林寺、藤樹書院など藤樹ゆかりの場所が多いですし、4月から5月上旬にかけて催される藤まつりの頃は、藤のたおやかな香りで包まれます。
また、陽明学者・王陽明の生誕地・逝江省余姚市との友好都市交流を記念して作られた、異国情緒ただよう中国式庭園・陽明亭もあり、散策にぴったり。最近では、家族そろって天体観測やキャンプなどが楽しめる県立びわ湖こどもの国もできてにぎわっていますよ。
町の伝統技術としては、力強い墨線が書家に愛されている雲平筆や、300余年の歴史と全国9割の生産量を誇る高島扇骨のほか、現在では受注生産だけとなった貴重な高島硯などが脈々と受け継がれており、町の年輪を感じることができますね。

■海釣り、夕焼け、父のまなざし… 忘れられない生涯の財産。

滋賀県ブルーレーク賞
永年の報道写真と滋賀県紹介への功労を称えて授与された滋賀県ブルーレーク賞。
さて、私がなぜこの歴史香る町で開業したかは後ほどお話しするとしましょう。実は生まれは京都府東舞鶴なんです。戦前、舞鶴港は軍港でした。当時は軍港の写真を撮っただけで憲兵隊に引っ張られたり、学校で上級生に殴られたりするのは日常茶飯事の時代…。そんな殺伐とした世相でしたが、父・文顕は私が俗っぽい趣味に陥らないように、毎日の生活の中で野趣を貴ぶ体験をたくさんさせてくれました。休日は日本海に注ぐ川原でキャンプしたり、手造りの絹網でアユすくいの妙技を伝授してくれたり、初夏には暗いうちから沖へ伝馬船を漕ぎ出してキス釣りに興じたりと、終生忘れられない思い出になりました。
今でも、日本海の夕焼け空と、軍港の残像が脳裏に鮮明に蘇ります。小学生の頃は毎日、学校から帰るとランドセルを放り投げて、家の裏手にあった浜辺へ一直線。魚釣りは一番の楽しみでしたね。くくっと浮きが引く一瞬に胸ときめかせながら、穏やかな海面と睨み合う…。
時がたつのも忘れ、やがて夕闇が迫る頃合い、湾内に浮かぶ大小の艦艇に灯が灯る。軍艦や兵舎から一斉に君が代ラッパが勇壮に吹奏されて、マストの軍艦旗が降ろされ、兵隊を満載した上陸用内火艇が海岸の桟橋目がけて波を蹴立ててやって来る…。カモメ、コウモリが飛び交う浜辺を後に、肩に竿を担ぎながら小さい獲物がいっぱい入ったバケツをしっかりと握りしめて家路を急ぐ、それが私の日課だったのです。
家に帰るなり、父は「どれどれ」とバケツをのぞき込んでは目を細め、「よい趣味や!」と感心してくれたものです。母は獲物を見繕って、喜々として夕餉の支度を急いでくれました。この魚釣りの追憶は、少年時代への郷愁とともに、亡き父や母への慕情を今なお募らせてやみません。

■“食料休暇”もあった終戦直後。ついに“二重学籍”がバレて…。

山本先生の代表作品:小鳥が飛来する湖北から望む近江八景「竹生島」
山本先生の代表作品:小鳥が飛来する湖北から望む近江八景「竹生島」
ところで、私は大阪歯科大学の第1期卒業生(67名)です。昭和22年8月、母校は旧制専門学校から旧制大学(予科3年、本科4年の7年制)へ昇格しましたが、同時に大学予科1・2年生の募集もしました。私たちの予科2年生のクラスは、他の理科系大学予科や専門学校、旧制高等学校、旧軍人学校に2年以上在学していた学生のクラスだったのです。
当時は終戦直後の混乱を反映して、学校の復旧・整備が遅れ、だれもかれもが食うや食わずの毎日…。そんな事情ですから、学校でも学生が栄養失調にならないように、“食料休暇”と称して、各自が栄養補給のために実家などに帰省することが許されていたのです。
「お粥腹ではどうも元気が出んし、大きな声も出せんなあ…」。予科長だった老教授の森田教授(生物学)の講義もこんな調子で始まる具合でしたから、まあ学業は適当にサボってもさして問題ないという、何とものどかな時代でしたね(笑)。
ところが、二学期が終わる12月のある日、担任の岡山大介教授(物理学)に呼び止められました。
「君は薬専と二重学籍になっとるそうだね。不謹慎だが授業料は払っとるから籍は残しておくが、まず薬専を出て来い」と諭されます。
家業が薬局だったので、いったん薬専に進んだ訳です。でも、無事に復員した兄が家業を継いだために、薬専を出る必要性は薄れました。ところが、私は予科の教養課程を受講したかったので、午前は予科、午後は薬専の実習と何食わぬ顔で出席していたのですが、遂にバレる羽目になったという次第、我ながら強心臓だったと思いますね(笑)。

■恩師、刎頸の友、学友たち… 懐かしい顔が次々と浮かんで。

ベトナム双生児救済基金募金活動や中学生の支援活動を報じる毎日新聞、毎日中学新聞とMainichi Daily Newsの記事
ベトナム双生児救済基金募金活動や中学生の支援活動を報じる毎日新聞、毎日中学新聞とMainichi Daily Newsの記事。
翌年3月に薬専を卒業して、岡山大介教授の前に出頭すると、「どうせお前はまた浮気するだろうからまだ来んでもよい。予科3年は飛ばして来年は学部に入れてやるから、もう1年どこなと行って来い!」との有り難いお達し…。当座の生活の糧もなかったので、滋賀県庁の先輩に相談に行った所、運よく衛生部に採用され、大津保健所の細菌検査技師として1年間勤務することになりました。この経験は後日大いに役立ちました。
昭和24年、晴れて歯学部へ進学。出席簿の順では、前がのちに教授となった芦屋の山田早苗君、後が大津の山元祐次君だったので、幸い助け船には事欠かず、特に物腰柔らかでお人よしの山元君には、代返やら講義ノートやらで世話になり、予科・学部時代を通して得がたい刎頸の友となりました。
さて、世の中は戦後のデモクラシーの自由な空気があふれる一方で、朝鮮戦争が勃発するなど、政治・経済的にも思想的にも大混乱期でした。その余波は私のクラスにも及び、反戦思想の影響を受けた7名の学友が枚方造兵廠の爆破事件の容疑で囚われる事件が起こったのです。
ところが、時の学生部長で後に学長になられた故・白数美輝雄しらすみきお先生は、自ら特別弁護人として法廷に立ち、体を張って学生を弁護してくださったことが今も忘れられません。
“愛のある所には潤が生じ、潤のある所には善がある。善に向かって進む所に真の幸福がある。理想は高く姿勢は低く、いつも太陽の明るさを持って邁進せよ”。あの物静かな口調で一句一句諭すように語りかけられた白数先生。それは親鸞に傾倒され、ホイットマンの詩情を愛された方ならではの心温まるメッセージですし、母校の教学精神や校風に相通じるものを感じますね。
“人間は万能ではないから失敗もあるが、その時こそ人が人間の限界を知り、謙虚な心で反省を繰り返すことによって前進することができる”。これは最も感銘を受けた白数先生の遺訓ですが、私にとっては終生自戒しなければならない有り難いお言葉として今も心に刻んでいます。

■友人の過剰サービスが奇縁で開業。芸妓お供のゴルフもまた楽し!

山本先生のご自宅を訪れた現ネパール王国日本大使(ケダール・マテマ氏)ご夫妻とご家族とのスナップ
山本先生のご自宅を訪れた現ネパール王国日本大使(ケダール・マテマ氏)ご夫妻とご家族とのスナップ。
さて、昭和28年には母校を巣立ち、京都大学口腔外科に入局後は、明石国立病院を皮切りに、岐阜市民病院、与謝の海療養所、豊郷病院、鳥取県立中央病院、日本レイヨン病院と赴任しました。最後は高島病院に歯科を開設して、10年にわたる年季が明けます。
折りも折り、高島病院で親しくしていた婦人科の医長が安曇川駅前で開業することになりましたが、ある日のこと…。
「実は隣に君の土地もちゃんと買っておいた。早よ開業せい!」と言って来たのです。老婆心というか、サービス過剰というか…。ともかく、これがきっかけになって、何の縁もなかった安曇川の地に根を下ろすことになったのです。開業は昭和37年11月、ちょうど40年前です。
当時で思い出すのはやはりゴルフ。歯科医師会調査室の先生に無理やり瀬田の打ちっ放しに連れて行かれたり、近江八幡のT先生と初めてコースを回ってからは、次第にその魅力にとりつかれました。同僚揃いの特注赤シャツにピカピカのクラブと言った完全武装の出で立ちまではよかったものの・・・。生まれて初めて赴いた樟葉河川敷コースでは、ピンの意味も分らず、空振りで1回転して転んでT師匠を呆れさせたりで冷汗三斗、緊張の連続(笑)・・・。それでも下手は下手なりに、やがてルールを覚え、八日市C.C.に入会してプレーするうちに、その楽しみ方も身に沿うようになってきました。
ある日、八日市C.C.でプレーし、その後、調査室の会議をもとうと予定していた時のことですが、予め大津の芸妓2人を八日市の料亭に呼び寄せておきました。ところが彼女達はちょっと早く着いたので和服姿のままゴルフ場までやって来ておりました。ハーフを回ったところで同行4人は彼女達を発見し、殿様気分よろしく、「え~い、連れて回れ!」とH室長の一声で、シューズを借りてきてやって、おべべ姿の美人芸妓お供にコースひと回り!と目論んだのですが、生憎、途中で雨にたたられ、綺麗どころの2人と私は先に引き上げパーキングの車中で雨宿りとなりました。この一件で同行の仲間からは妬まれるやら責められるやで大変でしたが、お蔭でゴルフ場からは何のお咎めもなく済んだという次第で、今では考えもつかないおおらかな1日だったなあ、としみじみと追想しているのです。
以来、地元ゴルフ場の理事をしたり、20年前にはホールインワンもさせてもらったりと、ゴルフと出会った幸せを回想する昨今です。

■30数年間に90カ国を訪問。今、自分にできることを… そんな気持ちから始めた国際交流。

左はフォン博士、右は山本先生
山本先生は、ドクちゃん、ベトちゃんの分離手術のための募金活動に奔走された。左はフォン博士、右は山本先生。
日本報道写真連盟の役員や滋賀支部長をやっていた関係で、1969年からマスコミなどに依頼されて、外国によく出かけました。アジア諸国、中近東、東欧、アフガニスタンなどの紛争地や最貧国が中心でしたが、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカの地の果てまでも歩き、この30数年間におよそ90カ国を巡って来ました。
“何でも見てやろう”の精神で世界の現状を撮っては、講演会で話をしたり、写真展を開いたりして、世界の実情を伝えつつ、国際交流の大切さを訴えて来ました。
20年前ですが、同業歯科医仲間とネパール王国へ旅行した時に、各自が持てる限り大量の抗生物資を身につけて、故マザー・テレサ女史が経営する施療院カラヤンケンドラを訪ねる機会があったのです。そこでは、貧しい患者さんたちが治療費の代わりに米や野菜を持ち込んでいるのを見て感動、医師としてできることは何だろうと考えました。
“愛は言葉ではなく行いです”というテレサ女史のメッセージに触れ、私は薬剤師でもある関係で、今後も“薬や抗生物質を送ろう!”と直感…。それが発端になり、アジアの人たちとの交流が始まりました。
引率した今津中学校の生徒たちとのネパール訪問
引率した今津中学校の生徒たちとのネパール訪問では、現地の子供たちとの交流や親睦がさらに深まった。
その後、報道写真家としてマスコミに請われてベトナムに調査に赴いた時、ベトナム戦争の後遺症、枯葉剤による結合体双生児や奇形児の実態を知って強い衝撃を受けました。ホーチミン市ツーヅー病院のフォン博士から、ベトちゃん、ドクちゃんの分離手術への協力を要請された時、“自分にできることはこれだ!”と感じ、帰国後、県厚生部や当時の外務大臣の宇野代議士に直訴したり、また、滋賀銀行に善意の窓口を開いて募金キャンペーンのためにマスコミに掛け合ったり、無我夢中の毎日でした。多くの方の善意と友情のおかげで、当時は国交の無い相手国のために日赤医療班の強力な援助を得て手術が成功したのはご存じの通りですね。
残念なことに、ビン・タン姉妹は1千万円近い義捐金を前にして急死しましたが、ビン・タン基金として残りました。そこで、フォン博士を滋賀県に招いてお渡しする事ができ、その後も結合体双生児や奇形児の救済に役立っていることは嬉しい限りですね。

■Seeing is believing. 一人一人の友情が交流の出発点。

中国式庭園・陽明亭
安曇川町と余姚市との友好都市交流を記念して作られた、異国情緒ただよう中国式庭園・陽明亭のたたずまい。
ネパール教育開発機構(NEDO JAPAN)の立ちあげを支援して来たのも、国際交流をもっと身近なものにしたかったからです。この組織はネパール王国への教育支援、文化交流、学術交流を活発化するため、11年前に設立されたNGOですが、日本の子供たちがネパール王国を知り、何か行動を起こすきっかけになればと願って活動を続けています。
私は町の教育委員長も勤めていましたので、子供たちへ教育活動の一環として、国際交流が大いに役立つと考えていました。たとえば、今津中学校学友会(生徒541名)では、3年半をかけて集めた約195万円の教室建設資金をカトマンズ郊外のスリジャナ・ウッダール校に贈ったのです。この資金は、生徒たちが不用品バザーや廃品回収でためたもの。私と供に生徒代表6人が現地を訪問して、建設資金のほかノート、文房具、英語の教科書などを手渡し、また、コンピュータを寄贈してMailで交流を深め合い、双方の子供たちの間に心通じる友情が芽生えましたね。
王陽明の生誕地・逝江省余姚市の余姚中学校
安曇川中学校の生徒を引率して、王陽明の生誕地・逝江省余姚市の余姚中学校を訪問、お互いの親善を深めた。
Seeing is believing .(百聞は一見に如かず)といいます…。自分の手足で感じ、自分で見聞する。異文化圏の人たちと、国境を越えて友情を深め、理解し合う。そんな体験が世代を越えてますます求められる時代になったと思います。
薬局を営んでいた父は、郷土史家でもありました。戦前、日本海に浮かぶ孤島で地元住民や漁民が信仰する神社がある雄島(冠島)の上陸可能域を海軍が「おおみずなぎ鳥」保護のためと称して突然立入り禁止したことに奮然と抗議しました。そこは、民有地でもあり漁民の緊急避難を無視した軍部の横暴でありました。“神より人より鳥が大事か!”と地元新聞で糾弾の論陣を張りました。この筆禍事件で父は海軍侮辱罪で投獄を余儀なくされ、当時の大審院まで争い、結果は「科料拾円に処す」との判決が下りましたが、決して自説を曲げませんでした。
筋が通らないとテコでも動かない私の性格は、父譲りかも知れませんね。これからもグローバルな目線で、自分ができることから実行することが大切だなあ…。琵琶湖の湖面を渡る爽風を頬に感じながら、そう思っているところです。

撮影:永野一晃
写真資料提供:山本直哉

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