会員登録

112号 SUMMER 目次を見る

ドクター招待席

天命に流されても、個性を生かす。それが、80余年の生涯で私が学んだ人生の真理かもしれません。

三浦 欣一

PDFダウンロード

ドクター招待席『天命に流されても、個性を生かす。
それが、80余年の生涯で私が学んだ人生の真理かもしれません。』

■目次

北海道旭川市 三浦 欣一 先生(北海道旭川市)
三浦 欣一 先生
人口36万人を擁する北の中核市・旭川市。旭川はアイヌ語でチュプ・ペッ(日の川)を意味する。
マイナス41℃の最低気温の記録が語る、降雪日数139日の酷寒の地だ。
大雪山・十勝岳連峰。石狩川の清流。
ダイヤモンドダストのきらめき。
ナナカマドの赤い実。ツツジの乱舞。平和通買物のにぎわい。
並木と会話する野外彫刻たち…。
そんな旭川の情景をカンバスに、三浦欣一先生はどのような筆致で、わが人生を描いてこられたのだろうか…。

■実直な父と誠実な母に見守られ、6人兄弟は育ちました。

晴れ晴れした気分に包まれた、三浦家のお正月のひとこま。後列右から弟・茂雄様、三浦先生、一人おいて父・巳之助様、前列右から三浦先生の奥様・レイ子様、弟・進様、左端母・静子様(1951年)。晴れ晴れした気分に包まれた、三浦家のお正月のひとこま。後列右から弟・茂雄様、三浦先生、一人おいて父・巳之助様、前列右から三浦先生の奥様・レイ子様、弟・進様、左端母・静子様(1951年)。今年で満81歳になりました。私は4男2女、6人兄弟の長男なんです。父・已之助の祖先は福井県武生の出ですが、祖父が明治30年頃に旭川に移住して来ました。当時、汽車は滝川止まりでしたから、旭川へは馬ソリに乗って丸1日かかったそうですよ。
父は高等小学校卒業後、18歳で上京し、歯科医院の技工見習いとして勤めながら東京歯科専門学校夜間部で勉学に励み、3年後、実地試験に合格して陸軍病院の衛生兵になります。大正9年に歯科医師の資格を取り、コツコツためた1万円を元手にして2年後、三浦歯科医院を現在地に新築しました。
母・静子は当麻の生まれですが、母の祖父・喜代太は、屯田兵に応募して島根県から入植した人と聞いています。その後、旭川に引っ越した母は、旭川私立女学校卒業後、知人の世話で父と結婚、8人の子を授かりました。ただ、2人の子を幼少時に失い、悲嘆に暮れた母の姿が、今も目に焼き付いて離れません。
長男の私を筆頭に4男2女、6人兄弟は、実直な父と誠実な母に見守られ、立派に成人できました。親の無私の愛というものは、つくづくありがたいものですね。晴れ晴れした気分に包まれた、三浦家のお正月のひとこま。後列右から弟・茂雄様、三浦先生、一人おいて父・巳之助様、前列右から三浦先生の奥様・レイ子様、弟・進様、左端母・静子様(1951年)。晴れ晴れした気分に包まれた、三浦家のお正月のひとこま。後列右から弟・茂雄様、三浦先生、一人おいて父・巳之助様、前列右から三浦先生の奥様・レイ子様、弟・進様、左端母・静子様(1951年)。

■“決死隊に行け!”の命令で一旦は死を覚悟したものの…。

あの戦争が終わって60年近い歳月が流れました。戦前・戦中派の世代にとって、あの戦争体験は深い記憶として、終生消え去ることはないでしょうね。
昭和18年、私は旭川第7師団に初年兵で入隊後、翌年旧満州へ赴きました。当時のソ連国境まで100キロばかり離れた牡丹江の陸軍病院での体験をお話ししましょう。この病院は道北病院の約3倍の規模、ドクター30名、看護婦・衛生兵数百名が詰めている大病院でした。
辛かったのは、川向こうにソ連軍が攻めて来た時です。“お前は決死隊に行け!”の命令が下ったのです。スパイに赤痢菌を飲まされて衰弱し、栄養失調で痩せ細っている時でした。“決死隊”ですが、要はタコツボを掘って、手榴弾3つぶら下げて、戦車に飛び込むんです。
当時、ソ連戦車は世界最強でしたから、びくともしません。死ぬのは分かっています。でも、飛び込まないと、肺結核の患者をハルピンまで搬送できません。で、腹をくくって諦めたんですが…。
今まさに、ソ連軍が橋を作って攻め込んでくる10キロ手前のところで、“決死隊”に退却命令が下ったんです。嬉しかったですね。この時だけは…(笑)。

■チフス肺炎に罹り、高熱で生死をさ迷った16日間。

病院に負傷兵が次から次へと運ばれ、いつも病室は手いっぱい。手術しているひまがないんです。血は吹き出すは、足はないは、頭はぐじゃぐじゃ。私も足を切る手伝いなどもしましたが、それが日常茶飯事でしたね。
昭和20年8月9日、ソ連が参戦してからというもの、敗残兵となった私たちは、とにかく逃げ惑うしかありませんでした。道路の真ん中は危ないので、道路と沼地の間に逃げ込むんです。そうしないと、爆撃機“赤とんぼ”の空襲が“ダダダダダッー”と来ますから。掃射で私の部下もたくさんむだ死にしました。無念でした。
敗戦の報は内地より1日遅れの8月16日でした。その日からつらい捕虜生活が始まりました。私も遂にチフス肺炎に罹り、高熱で生死をさ迷うこと16日間。なんとか生き延び、死亡した多数の兵士の遺体埋葬に明け暮れる日々が延々と続きます。

■4年間のシベリア収容所生活…。腹ぺこで食べた黒パン、鰊の味。

シベリア抑留体験をテーマにした「囚われの人」(1996年作品)について説明される三浦先生。シベリア抑留体験をテーマにした「囚われの人」(1996年作品)について説明される三浦先生。私が4年間、捕虜生活を送った収容所はウラジオストックから2、3時間、汽車に乗って行った所にありました。北朝鮮より北で、とても寒い所ですが、北海道の士別くらいの緯度でしょうか。ウーゴリバヤという地名ですが、ウーゴリは石炭、バヤは採れる所という意味です。収容所は二重の鉄条網に囲われ、火の見やぐらには、機関銃を構えた兵士がいつも睨みをきかして立っていました。
収容所の食事は、もっぱら黒パン。原料は大麦とか小麦じゃなくて、エン麦、カラス麦、ハト麦なんかを入れた真っ黒なかたまりなんですが、食べると歯茎に殻が刺さるんです。それでもみんな腹ぺこだから、最後の一切れまで残さず食べる。そんな生活が1年数カ月は続きました。
スープもありましたが、塩水スープとかケチャップスープとかです。中身はキャベツだったり、芋やかぶらだったり。でも、向こうは鰊がよく採れましたから、塩漬けしたのを樽に詰めて越冬の食料にしていました。私も大好きで、唯一と言っていいくらい、貴重なタンパク源でしたね、鰊は。
抑留体験を話せばキリがありません。口に出せないこと、胸が痛むことばかりです。飢えに耐え、痩せ細った体で、だれもがひたすら日本に帰りたい、帰りたいと一心に望郷の念を募らせていました…。シベリア抑留体験をテーマにした「囚われの人」(1996年作品)について説明される三浦先生。シベリア抑留体験をテーマにした「囚われの人」(1996年作品)について説明される三浦先生。

■父の願望でもあった旭川歯科学院専門学校の創立に奔走。

わが子のように育てた歯科衛生士や歯科技工士とその家族が大集合。三浦先生を囲んで(1998年)。わが子のように育てた歯科衛生士や歯科技工士とその家族が大集合。三浦先生を囲んで(1998年)。そんな望郷の思いがかなう日が、私たちにも遂に来ました。昭和24年の秋、舞鶴港へ着岸して、なんとか帰国できたのです。焦土と化した東京を尻目に見ながら、着の身着のまま旭川に帰りました。
帰国後は、石狩川のそばの旭町2条3丁目の診療所に詰めて、父とともに治療に専念できるようになったのは幸いでした。戦後復興の土音が高らかに響きわたり、この旭川の町も少しずつ元気を取り戻していくように感じられました。
父は艱難辛苦の末、歯科技工士から歯科医師になった人なので、歯科技工士や歯科衛生士の育成の重要性をいやというほど感じていました。私はそんな父に感化されましたから、40年ほど前ですが、歯科技工士と歯科衛生士を養成する「旭川歯科学院専門学校」を作ろう!と決断したのです。時の旭川歯科医師会会長は大内一雄先生、私は専務理事でした。しかし、昭和39年当時、歯科医師会立の学校があったのは沼津市だけで、会員100名たらずの会としては、さまざまなハードルがありました。
そこで、世代別の勉強会をもち、情報交換を密にするように働きかけたり、佐々木秀世代議士にお願いして、補助金の申請に東奔西走したりしました。
そんな会の総意と熱意が実り、3年後に創立に漕ぎ着けたのです。父も心から喜んでくれたでしょう。わが子のように育てた歯科衛生士や歯科技工士とその家族が大集合。三浦先生を囲んで(1998年)。わが子のように育てた歯科衛生士や歯科技工士とその家族が大集合。三浦先生を囲んで(1998年)。

■中学時代、上野成之先生に出会い、絵画に没頭した5年間。

旭川中学時代の5年間、三浦少年が毎日渡った旭橋。“渾々一百数十里石狩川は流れたり…”と校歌を歌いながらの、秋は川を溯上する鮭を見ながらの通学だった。三浦先生がその追憶の思いを込めて描きあげられた「雪景の旭橋」(1990年作品)。旭川中学時代の5年間、三浦少年が毎日渡った旭橋。“渾々一百数十里石狩川は流れたり…”と校歌を歌いながらの、秋は川を溯上する鮭を見ながらの通学だった。三浦先生がその追憶の思いを込めて描きあげられた「雪景の旭橋」(1990年作品)。人様に趣味などと胸を張れるものはありませんが、やはり絵が好きなのは人後に落ちません。幼い頃から、外で運動するより家の中にいる時間が多かったからでしょうね、本を読んだり、絵を描いたりだったんです。旭川中学校で美術の担任だった上野成之先生に出会い、その豊かな人柄に惚れて、美術部にすぐに入りました。そこで5年間、デッサンしたり、水彩画を描いたり、美術全集を見たり…。黒田清輝の写実に驚き、石井柏亭のデッサンに腰を抜かし、安井曽太郎の色彩に魅せられ、すっかり絵の世界に魅入られてしまいましてね。
上野先生は世界情勢にとても明るく、ボリシェビキの話や日本の戦況などを、分かりやすくかみ砕いて話してくれました。先生の口癖は“絵は学校間のコンテストにも、大きな公募展にも出すな”でしたが、私には学校の授業よりよっぽど楽しく面白かったのです。おかげで、成績は中途半端のまま。弟や妹のほうがずっと優秀でしたが、父も母もとても寛大でしたから、のびのびと絵を描かせてくれたのでしょう(笑)。旭川中学時代の5年間、三浦少年が毎日渡った旭橋。“渾々一百数十里石狩川は流れたり…”と校歌を歌いながらの、秋は川を溯上する鮭を見ながらの通学だった。三浦先生がその追憶の思いを込めて描きあげられた「雪景の旭橋」(1990年作品)。旭川中学時代の5年間、三浦少年が毎日渡った旭橋。“渾々一百数十里石狩川は流れたり…”と校歌を歌いながらの、秋は川を溯上する鮭を見ながらの通学だった。三浦先生がその追憶の思いを込めて描きあげられた「雪景の旭橋」(1990年作品)。

■戦争の愚かさを伝えたい。そんな思いを個展に託して…。

旭川美術振興会の有志とともに、世界各国の美術館や街角を巡り歩かれてきた三浦先生。目に写る風景、人々の息づかいや暮らしぶりは、すべて薫風のように爽やかだった。白いスケッチブックは、いつまでも驚きや感動で満たされている。旭川美術振興会の有志とともに、世界各国の美術館や街角を巡り歩かれてきた三浦先生。目に写る風景、人々の息づかいや暮らしぶりは、すべて薫風のように爽やかだった。白いスケッチブックは、いつまでも驚きや感動で満たされている。戦後は創立されたチャーチル会に入会したり、他の会で絵の勉強を続けたり、市民の美術鑑賞を手助けする旭川美術振興会でも活動してきました。この会では近代洋画の名作展を開いたことも思い出深いですが、会員有志が集まって、ロンドン、パリ、ギリシャ、イタリア、トルコ、エジプト、レニングラード、モスクワの美術館を巡り歩いたことも忘れられません。
買物一切なしのツアーでしたが、人類が継承している美術遺産の壮大さ、その美しさに心を奪われ、ただただ感動するばかりでしたね。
13年ほど前になるでしょうか、市内の小さなギャラリー喫茶ルルで、私の個展を始めました。あの悪夢のような収容所体験が原点かもしれませんが、戦争の愚かさを自分なりに伝えられないだろうか、次世代の人達に真実を知ってもらえないだろうか、そう思ったのです。
昨年、脳梗塞を患ったため、個展は8回目をもって終わらざるをえなかったが残念です。でも、“人を殺して勲章をもらえる国家の不合理さ、戦争の非人間性”を、そのまま伝えることができたのではと思います。以心伝心こそ、絵画や音楽など、芸術がもつ不思議な力ですからね。旭川美術振興会の有志とともに、世界各国の美術館や街角を巡り歩かれてきた三浦先生。目に写る風景、人々の息づかいや暮らしぶりは、すべて薫風のように爽やかだった。白いスケッチブックは、いつまでも驚きや感動で満たされている。旭川美術振興会の有志とともに、世界各国の美術館や街角を巡り歩かれてきた三浦先生。目に写る風景、人々の息づかいや暮らしぶりは、すべて薫風のように爽やかだった。白いスケッチブックは、いつまでも驚きや感動で満たされている。

■雪が解けると夢中でゴルフ!ホールインワン2回の快記録も。

ご存じのように、旭川はマイナス41℃の最低気温の日本記録が残っています。1年のうち半分は雪の中ですから。でも、雪解けを迎えたら、夢中でゴルフに興じる。私のゴルフはそんなゴルフでしたね。
ここ忠和5条6丁目からスキー場まで10分、ゴルフ場までわずか5分。寝坊しても間に合う近さなんですね(笑)。ゴルフ歴は35年ですが、ハンディ14が最高、ホールインワンは2回あります。どちらも愛別で、最初は昭和41年、コースができたばかりの13番の第1号でしたから、北海タイムスに載りました。2回目は、その20年後の8番ホール。ホールインワン保険に入っていなかったので、“アア、もういいよ”と言った記憶があります(笑)。
しかも、1回目のボールは借り物、使った5番ウッドも頂き物でしたから、私は変なゴルファーに違いないですね。夏は週1ゴルフで珍プレイを楽しんでいましたが、今は遠のいてしまったのがちょっと悔しい気もしますね。

■妻の看護も楽しむゆとりが。子供たちは希望の星々!

私と同じように絵が好きだった妻レイ子の看病が目下の私の日課です。
妻は34歳頃から全身慢性リュウマチに罹り、約40年間病魔と闘い、強い鎮痛剤を飲み続けています。徒歩が10余年、松葉杖で約10年、車椅子で10年余、そして近年は病臥に伏すようになりました。日本では完治が難しいと言われ、入院10回手術4回を経験しましたが、難病で治癒は一生ないと思います。
私も一昨年脳梗塞で倒れ入院することになったのですが、妻の介護があるので手術を拒否して退院しました。私も歩行に支障を来たし、物忘れも多くなり、好きな絵にも身が入らなくなり、辛い思いもします。
しかし「禍を転じて福と為す」って言いますね。ですから私は大いなる希望をもっています。4人の子供らを産み育ててくれた妻に感謝したい気持ちでいっぱいです。
長男・勉は3代目跡取りになってくれましたし、次男・克之は千葉県浦安で開業を果たしました。長女は嫁しましたが40歳で病死しました。残念ですが、次女が嫁して旭川におり、幸せな家庭をしっかりと守っております。次女が週4回も妻の介護に来てくれるのが何より有り難いです。朝晩の食事を並べるのも楽しいですよ(笑)。
座右の銘などありませんが、81年生きて来た証しとして、“天命に流されても個性を生かす”、いつまでもそんな生涯であればと願っています。

  • 旭川は彫刻の町と言ったのは、若い頃の五十嵐広三・元旭川市長。野外彫刻は平和通買物公園や常盤公園だけでなく、町並みにとけ合い、市民や観光客に親しまれている。緑豊かな散策道・7条緑道。
    旭川は彫刻の町と言ったのは、若い頃の五十嵐広三・元旭川市長。野外彫刻は平和通買物公園や常盤公園だけでなく、町並みにとけ合い、市民や観光客に親しまれている。緑豊かな散策道・7条緑道。
  • 小説「氷点」でデビューした、旭川出身の三浦綾子の旧宅を移築した塩狩峠記念館(和寒町)。1999年開館。旭川市内には、三浦文学の軌跡をたどることができる三浦綾子記念文学館がある。
    小説「氷点」でデビューした、旭川出身の三浦綾子の旧宅を移築した塩狩峠記念館(和寒町)。1999年開館。旭川市内には、三浦文学の軌跡をたどることができる三浦綾子記念文学館がある。
  • 天塩の国の入口、塩狩峠。明治42年、この峠で客車の暴走を身を挺して止めた長野政雄をモデルに、三浦綾子は小説「塩狩峠」を書いた。現場となった宗谷本線塩狩駅に長野政雄顕彰碑が立つ。エゾヤマザクラの咲く5月、列車は花吹雪を浴びてサクラのトンネルを走る。
    天塩の国の入口、塩狩峠。明治42年、この峠で客車の暴走を身を挺して止めた長野政雄をモデルに、三浦綾子は小説「塩狩峠」を書いた。現場となった宗谷本線塩狩駅に長野政雄顕彰碑が立つ。エゾヤマザクラの咲く5月、列車は花吹雪を浴びてサクラのトンネルを走る。
撮影:永野一晃
写真資料提供:三浦欣一

他の記事を探す

モリタ友の会

セミナー情報

セミナー検索はこちら

会員登録した方のみ、
限定コンテンツ・サービスが無料で利用可能

  • digitalDO internet ONLINE CATALOG
  • Dental Life Design
  • One To One Club
  • pd style

オンラインカタログでの製品の価格チェックやすべての記事の閲覧、臨床や経営に役立つメールマガジンを受け取ることができます。

商品のモニター参加や、新製品・優良品のご提供、セミナー優待割引のある、もっとお得な有料会員サービスもあります。