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113号 WINTER 目次を見る

ドクター招待席

孝高、良沢、玄水、諭吉、英之助・・・ 昔も今も独立自尊の心意気は、あの山国川のように、 中津人の胸中を滔々と流れているのではないでしょうか。

加来 敏男

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ドクター招待席『孝高、良沢、玄水、諭吉、英之助…
昔も今も独立自尊の心意気は、あの山国川のように、
中津人の胸中を滔々と流れているのではないでしょうか。』

■目次

大分県中津市 加来 敏男 先生(大分県中津市)
とし 先生
東に宇佐神宮で知られる宇佐市、西は福岡県県境を山国川が流れ、周防灘に注ぐ。
中津市は耶馬渓連山を南に望む、豊前・中津藩10万石の城下町だ。
豊臣秀吉の腹心・黒田官兵衛 よしたか や細川 ただおき ゆかりの中津城が川面に優雅な影を投げかける。
蘭学者・前野良沢をはじめ、中津藩医・村上玄水、慶応義塾の創設者・福沢諭吉、日本で初めて洋式歯科を開業した小幡英之助など、近代日本の礎を築いた先覚者たちの足跡…。
中津は、その息づかいを辿ることができる趣深い町だ。
祖父・福多先生、父・敏秀(豊英)先生の薫陶を授かり、3代目院長として加来歯科医院を受け継がれている とし 先生。
中津ならではの歴史風土と温和な気質に恵まれながら、日々の診療にご活躍の加来先生の横顔をご紹介しよう。

■ここからは、絶対に動かん!父の一徹さでこの地に…。

私は1983(昭和58)年に九州大学大学院を修了、4年間九州大学歯学部補綴科の助手を勤めた後、中津に帰郷しました。
それに合わせて現在の医院を新築したのですが、その時「こんな町外れで、診療をずっと続けるつもりなの? もっと交通の便の良い所に移転しようよ」と父に反論したことがありました。
すると父は「ここからは、絶対に動かん!」と耳をまったく貸そうとしません(笑い)。父の頑固一徹さは祖父譲り、その血は私も譲り受けていますから、その気持ちが分からない訳でもなかったのですが…。
でも、今ではこの三ノ丁で祖父、父、私と3代にわたって診療できる喜びをしみじみと みしめています。
中津で“よだきいのう”という方言があります。大名言葉で、「余は大儀なり」が語源で、面倒なという意味ですが、実は父にとっては、医院の引っ越しそのものが“よだきいのう”だったのかも知れませんね(笑い)。

■祖父も父も尊敬を惜しまなかった日本初の歯科医師、小幡英之助先生。

中津城公園内には、日本初の洋式歯科を開業した小幡英之助像が立ち、近代歯科の先駆者として敬愛されている。その伯父にあたる小幡篤次郎は、諭吉についで慶応義塾の2代目塾頭を務めた人物だ。中津城公園内には、日本初の洋式歯科を開業した小幡英之助像が立ち、近代歯科の先駆者として敬愛されている。その伯父にあたる小幡篤次郎は、諭吉についで慶応義塾の2代目塾頭を務めた人物だ。ところで、日本の歯科医師免許第1号は、中津出身の小幡英之助先生なんです。
小幡先生は中津藩士の長男に生まれ、20歳の時に慶応義塾に入塾し、その後、横浜で開業していたアメリカ人歯科医師のジョージ・エリオット先生に弟子入りして、研鑽を積みました。
でも、当時は“歯科”という科目はなく、口中科とか入歯科と低い評価を受けていたようですが、小幡先生は“歯科”の国家試験を内務省に要求し、東大の前身である東京医学校で受験して、1875(明治8)年4月、見事に合格し、歯科医師第1号となられました。開業地は当時の築地采女町です。
小幡先生は多くの門下生を育てた人で、誰彼なく自分の知識や技術をオープンにしました。皇族の侍医や数々の名誉職も一切断り、ひたすら市井の人々の治療と門下生の育成に心血を注いだのです。また、予約診療制を導入したり、さまざまな治療器具を考案して、歯科の近代化に貢献した人物としても知られています。
このような自由平等の思想や、反骨精神に満ちた生きざまが、祖父や父にも多大な恩恵を及ぼしたことは、想像に難くありません。
それは祖父や父をはじめ、中津人だけでなく、広く大分県、九州内外の医療に携わる人々の尊敬や憧憬を一身に集めていることで、その求心力の大きさが推し量れるのです。
中津城公園内には、昭和12年に日本歯科医師会が胸像を建立しましたし、昭和41年には銅像が再建されました。毎年5月に、近代歯科の先覚者の遺徳を偲ぶために、歯科祭と銘打ち神事を行っています。中津人にとって、小幡先生はまさに歯科界のパイオニアであり、福沢諭吉とともに郷土の大いなる誇りなのです。中津城公園内には、日本初の洋式歯科を開業した小幡英之助像が立ち、近代歯科の先駆者として敬愛されている。その伯父にあたる小幡篤次郎は、諭吉についで慶応義塾の2代目塾頭を務めた人物だ。中津城公園内には、日本初の洋式歯科を開業した小幡英之助像が立ち、近代歯科の先駆者として敬愛されている。その伯父にあたる小幡篤次郎は、諭吉についで慶応義塾の2代目塾頭を務めた人物だ。

  • 中津城内3階には、小幡英之助の功績を分かりやすく伝える中津ロータリークラブ元会長川嶌眞人氏寄贈の常設展示コーナーもある。
    中津城内3階には、小幡英之助の功績を分かりやすく伝える中津ロータリークラブ元会長川嶌眞人氏寄贈の常設展示コーナーもある。
  • 幼少時代から長崎に遊学する21歳まで、起居した母屋と勉学に励んだ土蔵が残る福沢諭吉居宅。隣接する記念館では、「学問ノススメ」の初版本など、諭吉に関する資料展示があり、その一生を辿ることができる。
    幼少時代から長崎に遊学する21歳まで、起居した母屋と勉学に励んだ土蔵が残る福沢諭吉居宅。隣接する記念館では、「学問ノススメ」の初版本など、諭吉に関する資料展示があり、その一生を辿ることができる。
  • 生田門は大手屋敷と呼ばれた中津藩家老・生田家の門。中津の藩政時代を今に伝える貴重な文化財だ。福沢諭吉が創立した慶応義塾の分校・中津市学校の校門や、加来先生の出身校でもある南部小学校の校門として、市民に親しまれてきた。加来先生のお父様、加来豊英先生は生田門の復元検討委員会委員長として、その再建に精力的に取り組まれた。
    生田門は大手屋敷と呼ばれた中津藩家老・生田家の門。中津の藩政時代を今に伝える貴重な文化財だ。福沢諭吉が創立した慶応義塾の分校・中津市学校の校門や、加来先生の出身校でもある南部小学校の校門として、市民に親しまれてきた。加来先生のお父様、加来豊英先生は生田門の復元検討委員会委員長として、その再建に精力的に取り組まれた。

■患者の生き死にを見にゃならんから、医学部へは行くな!

私が高校2年生の時のことですが、進路指導の先生に「加来、医学部へ行けよ」と薦められ、自分でもちょっとはその気になっていたんですね。
それである日、父に医学部へ行きたいと打ち明けたところ、父は即座に「患者の生き死にを見にゃならんから、医学部へは行くな!」(笑い)。
父としては是が非でも、後を継がせたい一念で、そう言ったのでしょうね。
祖父が、この三ノ丁で開業したのが1917(大正6)年ですから、かれこれ90年近く。診療室の玄関横にある資料室の中には、戦前に祖父と父が共用していた診療台や器具が残っています。
父は頑固なところもありますが、意志が強く誠実で、書を良くし、とても世話好きな人なんです。
今は病床にありますので、やや精彩を欠いているのは残念ですが、私も独立自尊の心意気だけは失わないよう、日々努めたいと思っています。

  • 加来歯科医院開業当時の診療風景スナップ(大正6年7月)。真ん中に立って診療されているのが、祖父・福多先生。
    加来歯科医院開業当時の診療風景スナップ(大正6年7月)。真ん中に立って診療されているのが、祖父・福多先生。
  • 院内に設けられた資料室には、祖父・福多先生の胸像、開業当時の治療器具や薬品棚などのほか、足踏みエンジンの滑車とペダル部分や日本初輸入の消毒器など、珍重すべき展示がある。加来歯科医院の90年を記録する“歯科記念館”でもある。
    院内に設けられた資料室には、祖父・福多先生の胸像、開業当時の治療器具や薬品棚などのほか、足踏みエンジンの滑車とペダル部分や日本初輸入の消毒器など、珍重すべき展示がある。加来歯科医院の90年を記録する“歯科記念館”でもある。

■恩師や旧友に教わった人の和の尊さ。

第34回日本口腔インプラント学会の総会・学術大会会場でのスナップ。加来先生は「インプラントによる咬合支持の回復が隣在歯の高度骨吸収の改善に有効であった一例」という演題で研究発表され、注目された。第34回日本口腔インプラント学会の総会・学術大会会場でのスナップ。加来先生は「インプラントによる咬合支持の回復が隣在歯の高度骨吸収の改善に有効であった一例」という演題で研究発表され、注目された。私は、九大在籍中多くの優れた恩師や先生方から、多大なご教示、指導をいただいてきました。まず、南里獄仁講師のお世話で基礎の大学院から第2補綴科に入局することができました。第2補綴の助手となり、末次恒夫教授の下で学生実習の指導を4年間経験しました。ここで総義歯作成の指導教官をしたことが、私にとって大きな財産になっています。現在も大学時代と全く同じ方法で総義歯を作成しています。
また、第2補綴時代から日本口腔インプラント学会、日本歯科補綴学会に入会し、現在まで約22年間インプラントに関わってきました。自分で初めて手がけてから19年になります。この15年くらいの間に、大学でも本格的な取り組みが始まり、かなり進歩して来ました。お陰で、現在では、安心してインプラント治療を行えるようになりました。
開業後の私にインプラントへの取り組みについての指導をしていただいたのが、中村社綱先生です。熊本県本渡市開業の先生で、全国を講演、指導に飛び回っておられますが、先生の開業地を知り、都会でなくてもインプラント治療ができることを教えていただきました。
8年前から、山口県宇部市にある日本歯科先端技術研究所で骨移植や増骨の動物実験を行い、その研究の成果を日本口腔インプラント学会で発表し、臨床応用にも努めてきました。
現在では九州インプラント研究会研修医として、会長である添島義和先生をはじめ、大分市の阿部成善先生や佐伯市の土屋直行先生からも貴重な指導や助言をいただき、大分県で3人目のインプラント学会認定医になるべく頑張っています。

■与えることで豊かさをいただく。それが人の道ではないかと…。

この医院がある三ノ丁は、かつては中津城の三ノ丸だった場所で、医院の建物はその石垣の上に建っています。町並み保存条例で規制がきついんですが、景観とか静けさとか、むしろそれが幸いしてる面もあります。
この診療室からは堤防が望めますでしょ。川面に白鷺やカモメが飛来するのが見えたり、ススキが風に揺れる河原では赤トンボの大群も見られます。春夏秋冬の移ろいが楽しめるんですね。患者さんはチェアで治療を待ちながら、そんな長閑な風景を楽しんでもらうことができるのです。
大分、中津のうまいもんと言えば、やはりハモ、フグ、ベタ、きぬ貝(あおやぎ)などの海の幸、椎茸やカボスでしょうね。地震や災害が少ないことも、気風に素直に表れているのも中津らしい所ですね。
らしさと言えば、中津人はよく飽きっぽいといわれます。熱しやすいが冷めるのも早い。たとえば、町に珍しい店が新しくできたとしますね、だれもがワーッと集まり店は賑わうのですけど、そのうちサーッと潮が引くように人気も客足も遠のいてしまう。
それを裏返すと、いつも新しいモノや文化に飢えているともいえるし、世間が平和、性格が温和で素朴とも言えますが(笑い)。私も同根なので、ああそうだなーっていつも思っているんですが、見方を変えれば何かいいものはないかとか、いい方法はないかとか、虎視眈々とアンテナを伸ばしてるようなところがあります。
それは診療や治療でも、基本的には同じでしょうね。レーザー治療やインプラント治療に早くから取り組んで来たこともその流れでしょうし、多くの診療オプションをもつことで、それが患者さんにさまざまな選択肢を提案できることにつながっているのですから。
私が帰郷した折、総義歯を作ってあげた90歳代のおばあちゃんが、「おじいちゃんの代から知っとるよ。あんたも頑張って!」と励まされて感激したことがあります。医療に携わる者は、日々患者さんに何らかの恩恵を差し上げることで、心の豊かさをいただいている、そこに唯一、人として生きる道があるのではないか。そんな気がしているのです。

■最も奉仕する者は最も多く報われる。

私はひとりの医療人である前に、血の通ったひとりの人間でありたいと常々思っています。その軸足になっているのがロータリークラブの活動です。
ロータリーを初めて知った時、“最も奉仕する者は、最も多く報われる”という超我の奉仕精神に触れ、とても感動しました。「真実かどうか、みんなに公平かどうか、好意と友情を深めるかどうか、みんなのためになるかどうか」という“四つのテスト”がロータリーの綱領に有りますが、これを自分に問いかけるのです。この自問自答を常に忘れず、あらゆる言行の原点に据えています。
中津市には、半世紀前に中津ロータリークラブができまして、30年前に中津中央、平成元年に中津平成と続いて結成されてきました。私は中津平成ロータリークラブのチャーターメンバーですが、業種や世代を越えたシームレスな立場の人たちがメンバーなので、いつも新鮮な学びや気づきがありますし、何よりも本音で付き合えることが嬉しいですね。

■お父さんの後を継ぎたい!そう答える頼もしい息子たちに感謝。

4代目ですか?中学生と小学生の息子がいますが、どちらかが4代目を継いでくれたらというのが、私の希望ですが…。一緒に風呂に入って、大きくなったら「お父さんの跡継ぎになるか」と聞くと二人とも「なるよ!」と揃って頼もしい返事(笑い)。そんな息子の言葉を励みにして、あと20年は現役でいたいですね。信頼できる代診の先生が見つかれば、少しは精神的にもゆとりをもって、診療に勤しめるのではないかと思っています。
いつの時代も世代間のすれ違いはあるものですが、互いに理解し合うという心持ちが大切だと思います。今は歯科衛生士6名、受付1名、歯科技工士3名のちょっとした大所帯なんですが、30年も勤続している技工士がいますし、優秀なスタッフに恵まれ、そのみんなが力を合わそうという意識が強いのは助かります。
それと健康…。睡眠時間は5、6時間ですが、アルカリイオン水と毎朝1杯の野菜ジュースを飲み、三度三度の食事をきっちりと…。“医者の不養生、紺屋の白袴”では困りますから(笑い)。

  • 僧禅海が1734(享保19)年から30年の歳月を費やして、難所だった岩壁を貫通させて造った青の洞門。青は小字の地名。洞門の上には競秀峰がそそり立つ。菊池寛の名作「恩讐の彼方に」の舞台にもなった景勝地だ。(本耶馬渓町)
    僧禅海が1734(享保19)年から30年の歳月を費やして、難所だった岩壁を貫通させて造った青の洞門。青は小字の地名。洞門の上には競秀峰がそそり立つ。菊池寛の名作「恩讐の彼方に」の舞台にもなった景勝地だ。(本耶馬渓町)
  • 1640(寛永17)年、村上宗伯が開業した、藩の御典医屋敷を史料館にした村上医家史料館。診療室や書生部屋がそのまま残り、村上玄水が中津で九州初の人体解剖を行った記録書「解臓記」など貴重な品々が展示されている。
    1640(寛永17)年、村上宗伯が開業した、藩の御典医屋敷を史料館にした村上医家史料館。診療室や書生部屋がそのまま残り、村上玄水が中津で九州初の人体解剖を行った記録書「解臓記」など貴重な品々が展示されている。
撮影:永野一晃
写真資料提供:加来敏男

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